「書評のひろば」は、ひとつの本について、異なる分野の専門家たちが書評を書き、それらの書評に本の著者が応答し、ある本を立体的に理解した上で、科学や社会、あるいはコミュニケーションについて、理解を深めていく企画です。今回取り上げる本は、『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』(佐倉統、2020年、講談社)です。
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『科学とはなにか』文化資源学研究者の書評:中村雄祐
『科学とはなにか』は、日頃誰もが気にしつつも敷居の高い科学の世界を「ときどき内側に入ってようすを見ながら、やや外側から接する」という立ち位置で論じる本である。
冒頭に、著者がこのテーマに取り組む契機になった二つの対話が紹介される。一つ目は大学院時代の指導教官との対話、二つ目は博士論文執筆のためにギニアでチンバンジーの生態調査をしていた時の村のおばあさんとの対話である。著者は、帰国してチンパンジーの研究で理学博士号を取得するが、その後はそのまま霊長類学者にはならず、科学技術と社会の関係を研究する道へ進んだという。本書で「科学技術」とは、自然界の成り立ちを知る科学と人工物を作る技術の融合体を指す。
私は、著者とほぼ同世代で、偶然ながら、ほぼ同じ時期、ギニアの北東に位置するマリで文化人類学の博士論文のために口頭伝承の調査をしていた。そして、同じように、滞在中の経験から博士号取得後は文化人類学に進まず、時々開発援助プロジェクトに関わりながら読み書きと社会の関係を研究する道へ進んだ。現在は人文系の大学院で学際研究や社会連携を追及する研究室で働いている。いわば、科学と少し違う意味で敷居が高い人文学の世界に「ときどき内側に入ってようすを見ながら、やや外側から接する」日々である。
読み書きは分野を問わず学術研究の基礎だが、他の研究テーマと同じく、いざ研究し始めると実に多様なアプローチがあり、専門化が進む傾向がある。ところが、その一方で、近年はデジタル技術の汎用化を受けて多領域の組み合わせ進化も勢いを増している。中でも、情報工学と連係した脳神経科学が目覚ましい成果を上げており、オンラインの科学ニュースのヘッドラインを飾ることも多い。しかも、ブレイン・マシン・インターフェイスの実用化が進む一方で、いわゆる「生成系 AI」がまるで人が書く(描く)ような文章や画像を出力するようにもなった。マスメディアで硬軟取り混ぜた解説を見かけるし、本格的な学術論文もオンラインで公開されているが、深く理解するには相当の訓練と経験が必要である。
自分の非力さを思い知らされる日々でもあるが、それでは「もし情報工学と脳神経科学を追及したら、読み書きと社会の関係が明らかになり、未来に向けた確固たる指針が得られるか?」というと、そういう予感もしない。デジタル化との間に単純な因果関係は想定できないが、PC やスマートフォンのウィンドウ越しに見る世界はVUCA(Volatility 変動性、Uncertainty 不確実性、Complexity 複雑性、Ambiguity 曖昧性)に満ちているように感じられる。
そんな状況にあって『科学とはなにか』では、科学技術が、方法や歴史はもちろん、教育や不正など多様な視点から縦横に論じられる。俯瞰的な分、各項目は短めで、そのかわり巻末に「もっと読みたい人のためのブックガイド」も載っている。そして、著者のメッセージは「終章 ー 科学技術を生態系として見る」の 3 つの論点、複雑性、進化、活用にまとめられ、さらに「生態系を飼い慣らす」という言葉に集約される。「飼い慣らす」は一見やわらかい印象を与えるが、途中の章で示される科学技術の獰猛な一面を踏まえると、著者の覚悟が感じられる言葉でもある。
「科学技術を飼い慣らそう」というメッセージを受けて改めて考えさせられるのは、「科学者」「研究者」「専門家」の人生である。著者は第一章で自分は科学者ではないと明言しているが、研究者、専門家であることは確かだろう。他方、第二章では、科学と対比的に「日常生活における知識の目的」を「とにかく、生活を安定させる、充実させること」と述べている。
これらの考察を読んで思い出したのは、 S. ピンカーの次の文章である。
「・・・私の同僚の教授には死ぬまで研究に没頭するような人が多いが、ほかの仕事で働く多くの人々にとっては、老後はやはり仕事から離れ、ゆったりと過ごせるほうが幸せだろう。読書をしたり、何かを学び直したり、キャンピングカーで国立公園をめぐったり、イギリスのワイト島のコテージでベラやチャックやデイブ[ビートルズの When I’m Sixty-Four に登場する未来の孫たち]をあやしたり。こうした老後の楽しみというのも、現代社会がもたらした恩恵である。」(Pinker, S. (2019)『21 世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム、進歩』 、翻訳:橘明美 & 坂田雪子. 草思社、Ch.17)
私自身は、そんなに甘くないだろうと思いつつ「読書をしたり、何かを学び直したり」の老後に心惹かれるが、死ぬまで研究に没頭しそうな同業者は確かにまわりにもいる。もちろん、現役の大学教員も職場や家庭の用事に追われる合間を縫って研究に取り組むのが実情で、定年後に研究に没頭する環境を維持できるような人はさらに限られるだろう。それでもなお、命の続く限り寸暇を惜しんで研究を続けるのが、研究者と呼ばれる人々である。
その飽くなき探求心は必ずしも「社会のため」に向かうとは限らないが、因果関係が複雑に絡み合った生態系では短期的で単純な目標設定が裏目に出ることも少なくない。そのことは『科学とはなにか』が指摘するとおりである。科学者は多様な研究者の一つの極であり、科学技術の重要性が増すほどに、他分野の研究者やステークホルダーとの関係もより複雑化することになる。
さらに広く社会に目を向ければ、ここが人間の不思議なところだが、デジタルネットワークが広まった結果、「とにかく、生活を安定させる」ことに追われながらも己の探求心の赴くままに何かを調べたり試したり論じたりすることに熱中する人々がたくさんいることを、私たちは知るようになった。ブログやSNSや動画サイト、さらにはオープンサイエンス、オープンソース、オープンデータなどの動きもあって、「在野研究」という言葉もより現実味を増している。「科学とはなにか」という問いは、「研究とはなにか」というより大きな問いへの入り口でもある。たとえば、多様な研究が蓄積される一方で少子高齢化が進む日本において、老境の科学者や研究者はいかに生きるべきだろうか?
現在、私たちは「科学技術の飼い慣らし」を喫緊の課題としつつ、「生活が懸かった必死さ」と「寝食を忘れる探求心」という二つの情熱の間で折り合いを付けながら日々を生きている。これらは互いにぶつかり合うことが多いが、方向が重なるとすさまじい勢いを獲得し、それが新たな達成や課題につながる。生成系AIなど、その最新例である。これからも科学技術を巡っていろんなことが起きるだろう。科学技術を絶妙の位置から研究してきた著者の今後の活動に注目している。
中村雄祐(東京大学大学院人文社会系研究科・教授)