『科学とはなにか』生物学者の書評:道上達男

2023-07-19

「書評のひろば」は、ひとつの本について、異なる分野の専門家たちが書評を書き、それらの書評に本の著者が応答し、ある本を立体的に理解した上で、科学や社会、あるいはコミュニケーションについて、理解を深めていく企画です。今回取り上げる本は、『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』(佐倉統、2020年、講談社)です。

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『科学とはなにか』生物学者の書評:道上達男

社会における科学・技術「神話」は、近年残念ながら揺らいでいると言わざるを得ない。本書では、社会は科学をどう利用するべきか、専門家は科学を社会にどう示していくべきか、様々な例をわかりやすく示しながら議論が進められていく。

第一章で著者の若い頃の経験が語られた後、第二章からは本格的な論述が始まる。まず、夕焼けを眺めるカップルを例に挙げ、知識の使い方には適材適所が必要であることが示される。また、専門家による科学的事実の検証には時間がかかること、日常の知識と科学・技術の知識には違いがあることが述べられた後、科学技術を「飼い慣らす」というフレーズが登場する。市民が科学と向き合い社会に適切に実装することの重要性をこの言葉は的確に指摘しているように思える。

第三・四章では、科学者の規範モデル(CUDOs:共有性、普遍性、無私性、懐疑主義)と科学の現実(PLACE:独占所有、局所性、権威主義、国家からの委託、専門家の振る舞い)に触れながら、科学の対象者に関する具体的な議論が進む。第三章では科学がかつて国家統治の道具となっていたことや研究者も権力・お金に向かっていたこと、また天文学やオルガンがその時代に「役立った」科学の実例として紹介されている。第四章では、19世紀に入り科学のありようが変化していく様子が①知識獲得法の確立、②「研究者」という職の認知、③国家との癒着・戦争への利用、④企業による科学の利用、という観点から論じられている。

第五章では、市民が科学をどう利用すべきかについて議論が展開されている。この章で述べられる「自然主義の誤謬」、すなわち価値が事実に還元できないことは、専門家の側も留意すべき点である。専門用語の有無と聞き手の満足度を示すグラフもまた、科学の発信側と受ける側との関係を示す例として興味深い。その他様々な例を通し、社会と科学がどのように相互作用すべきかが論じられている。科学の飼い慣らしの実践編と題された第六章では、新たなキーフレーズ「尊大な専門家主義、傲慢な反知性主義」への立ち向かい方が提示される。「シチズンサイエンス」と「当事者研究」が勃興する背景は科学への不信感の顕れかもしれないが、市民の側が科学に積極的に参加し、科学と社会の乖離を防ぐ手段としてこれらは有効そうである。

第七章では、日本における科学の考え方の特徴と問題点が示されている。科学を文化としてではなく成果として捉える日本の風潮は、残念ながら言い得ていると感じざるを得ない。そして終章で著者は、科学技術を「生態系」に比喩する。本当の生態系が無理な人間活動によって崩れることは明らかだが、それは科学も同じであるという主張である。個人的には科学を「日本家屋」に例えた点も面白いと感じた。

 科学者の一人として、本書を読んで感じてほしいと願う点は、市民と科学者の「両者」が社会と科学の立ち位置を今一度考えるべき、ということである。科学者は市民よりも科学に取り組むエフォート率は高いし、よく理解もしている。しかし、それと同時に社会実装も科学者の役割で、それは「役立つ」と同じではない。同様に社会の側も、どう科学を使うかをよく考え、必要以上に敬うことなく、さりとて疎んじることもなく、まさに「飼い慣らして」いくことが重要なのだろう。私自身、ぼんやりと気になっていた様々なことが、本書を読むことで顕微鏡のピントが合うかのごとく脳に顕在化した。本の題名にある「三つの視点」、実は著者は明示していないが、読者がそれぞれの視点で当てはめることが出来ると思う。それは顕微鏡のピントの合い方が人によって異なるがごとくである。

道上道男(東京大学大学院総合文化研究科 広域科学専攻・教授)