科学コミュニケーションの一つの方法として、研究者が研究している様子をそのまま見せようという試みがある。研究者が、必ずしも正しいとは限らない新しいアイデアを共同研究者と議論・展開していく様子を実見することで、科学の本質ともいえる新しい知を生み出すプロセスを理解してもらおうというものである。また近年には、公的な研究資金を用いた論文成果とそのエビデンスとなるデータを公開することで、研究の透明性を確保するとともに、新たな知の創出を促進する「学術情報のオープン化」が謳われてもいる。この考え方を発展させて、論文になっていない研究データについても研究者間で共有することでデータ駆動型の研究を進めようという提案もある。
一方で研究活動においては、意見交換が互いに対等な立場で行われ、同じ分野の研究者を含めて他人から発言が非難されることはないという「心理的安全性」が重要である。公開されない意見交換を行うチャンネル(非公開の研究打ち合わせ、当事者間の電子メールのやりとりなど)があることは、こうした環境を作るために役立っている面もある。では、研究者の研究活動において、何が公開されるべきであり、何が非公開とされるべきなのだろう?
こんなことを考えたのは、アメリカでは研究者への政治的な攻撃手段とも受け取れるような情報公開請求が行われることがあり、未発表の研究データや共同研究者との電子メールのやり取り、携帯電話の通話記録などの公開を求める事例があることを知ったからである。裁判になった場合の判断は、州法の違いもあって分かれており、研究記録等の公開は研究者間の自由な意見交換を阻害し「当該大学の研究競争力を低下させる」という理由で原告の訴えを却下するケースもあれば、原告の訴えに公益性を認め、研究者が大学に雇用されて以降の電子メール全ての公開を命じたケースもあるようだ。
大学が「人類社会が直面する地球規模の課題への貢献」に向けて「大学として」取り組むことを謳うとき、「研究者は独立して研究を行っており、研究データや研究上のやりとりは研究者個人のものであって大学の文書ではない」というようなナイーブな立場をとるのは難しいようにも思われる。だが、人類社会が直面する地球規模の課題は往々にして社会的な関心が高いテーマでもあり、日本でも研究者が政治的な対立・分断に巻き込まれてしまう可能性はある。アメリカのような情報公開請求が行われた場合に、どのような根拠でどこに線を引くか、あらかじめ考えておく必要がありそうに思われる。