連載エッセイVol.212「字になるか、ならないか」 青野 由利

2025-04-23

 長年、新聞社で科学記事や科学コラムを書いてきた(という話は以前も書いた)。その結果、「職業病」のように身についてしまった癖がいくつかある。

 定時のニュースを聞かないと落ち着かないこと、いつも電話が気になること、お昼も夜もご飯を食べる時間が遅いこと。こういった習慣は3年前に退社してから徐々に抜けたが、先日、「これはなかなかしぶとい」と気づいた癖がある。

 どこに行っても、何を見ても、何を聞いても、「これは字になるか、ならないか」を反射的に価値判断してしまうことだ。

 「字になる」とは、つまり「記事にできるかどうか」。駆け出しの記者だったころネタ探しにとても苦労した。それが高じて、「字になるかどうか」を瞬時にふるいにかけるセンサーが脳内にできてしまったのだ。

 新聞社勤務だったころは、その脳内センサーに疑問を抱いたことはなかった。むしろそれがなければ仕事に支障が出ただろう。

 でも最近、これってまずいんじゃないの、と反省するようになった。記事にならなくても、重要だったり楽しかったりすることはいくらもある。なのに、「字にならない」と判断したとたん、その対象への興味を失いがちであることに気づいたのだ。

 そんなことを思いつつ、3月末、駒場で開かれた「科学技術インタープリター養成プログラム」の修了式をのぞきにいったら、反省を忘れて脳内センサーが作動してしまった。「字になりそう」なテーマが満載だったからだ。

 たとえば『チ。―地球の運動について―』を題材に、科学史の史実と異なるフィクションを含むマンガが学問への導入に資するかどうかを分析した研究。自ら短編SF小説2編を書いて、数学を学ぶ動機付けへの小説の影響を分析した研究等々。いずれもユニークな視点が刺激的だった。

 それとは別に、もうひとつ感じたことがある。学生たちがお互いに言いたいことを言い合いながら、(たとえ苦しい場面があったとしても)楽しく課題に取り組んだ様子が伝わってきたことだ。

 もちろん、「字になるかどうか」より、これが大事なのだ。

『学内広報』no.1593(2025年4月23日号)より転載