連載エッセイVol.26 「戦争と科学リテラシー」 岡本 拓司

2009-09-17

第二次世界大戦終わり頃の日本の新聞を読んでいると、すでに1945年8月以前から新型爆弾や原子爆弾といった言葉が使われていたことに気づく。もっとも原子爆弾は、言葉だけならばH. G.ウェルズの小説「放たれた世界」(1928年)やアガサ・クリスティーの戯曲「ブラック・コーヒー」(1930年)にも現れ、日本でも、前者を読んだ寺田寅彦が、1929年の随筆の中で「原子爆弾」という語を使っている。

敗戦直前の日本の「原子爆弾」はもっと現実味があり、これはドイツの開発しようとしている新兵器であって、日本にも専門の近い仁科博士や湯川教授がいると紹介されている。いくつかの回想を読むと、気のきいた軍国少年であれば、原子核研究の最先端を担う物理学者が日本にいて、いずれ起死回生の新兵器を開発すると考えていたらしいことも窺われる。実際にはドイツや日本がこの新兵器を使うことはなく、日本の場合にはそれが初めて使われた国になってしまったのであるが。

鉄砲から放たれる銃弾は放物線を描く。日清戦争でも海戦ではすでに数千メートルを越える飛距離をもつ大砲が使われていたから、これくらいになるとコリオリ力も考慮しなければ弾はあたらない(考慮してもあてるためにはさらに高度な知識が必要らしいが)。物騒なことをいうようであるが、命の関わる戦争が身近にあったころ、兵器の原理を理解することを通して軍国少年たちの得た科学的な知識は、かなり高度なものであったように思われる。

科学リテラシー向上のために戦争をするわけにはもちろんいかないが、考えてみれば科学リテラシーの低下を嘆いていられる時代は平和なよい時代なのかもしれない。しかし、隣国が地下核実験に成功し、長距離弾道ミサイルも製造しているというのであれば、それを話題にする際に、核分裂の原理や、弾道ミサイルの「弾道」の意味を解説する程度のことはあってもよいと思う。隣国の脅威を強調しすぎるのが不適切であれば、毎年8月6日と9日に原子爆弾の悲惨さを再確認する際に、その悲惨さをもたらした爆弾の原理についての説明を加えるのでもよい。世界唯一の被爆国であるならば、小学校1年生からその程度の知識をもっていても不思議ではない。敗戦直後、科学の力の前に敗れたと反省した人々は、未来の日本をそのような国として構想していたようにも思う。

2009年9月17日号