連載エッセイVol.75 「セクハラとエロティシズムの境界について」 藤垣 裕子

2013-11-04

今回は芸術作品のインタープリテーションから。

「プロセルピナの強奪」(Ratto de Proserpina)イタリア語ではそう書いてあった。高さ3メートル近く。公衆の面前に、今まさに男に誘拐されそうになっている女の彫刻が堂々と飾ってある。ローマのボルケーゼ美術館のその彫刻の前で、私はしばし言葉を失った。

しかも、そのベルニーニの彫刻は、感動的に美しいのである。男の手が女の腰と大腿にくいこんだ質感や女の足先の緊張まで表現されたその彫刻は、大理石であることを忘れさせる。女の頬につたう涙さえ描かれている。手に入れた女をまるで王冠のように持ち上げる男の名はプルート。ギリシャ・ローマ神話のなかで冥府を司る神である。プロセルピナは春の女神で、プルートに誘拐され柘榴を食したため1年のうち半分を冥府で、残り半分を地上で過ごすことになったという。

さて、セクハラとは、「相手の意思に反して不快や不安な状態に追い込む性的な言葉や行為」を指すので、誘拐や性的乱暴は明らかにセクハラである。この観点からすると、この彫刻はセクハラ彫刻といえよう。セクハラ彫刻を堂々と公衆の面前に展示することへの疑義が、国が違えば申し立てられるかもしれない。しかし、同時にこの彫刻はほんとうに美しいのである。見る人を濃厚なエロティシズムの世界に誘う。「エロティシズムとは、存在が意識的に自分を揺るがす不安定さのことなのである。」「人間のエロティシズムは、まさに内的な生を揺るがすという点で、動物の性衝動と異なっている。」バタイユの刺激的な言葉を思い返す。エロティシズムとセクハラの境界とは何だろう。もしもプルートとプロセルピナが現代の職場の上司と部下であったなら、セクハラ彫刻となる可能性が高い。また、両者の間の合意の有無も問題となるだろう。男の合意は瞬間的で微分的であることが多いのに対し、女の合意は回顧的で積分的である傾向が強い。だから、境界が融解するような生の淵の時間が、後から職場の枠組みから実に無味乾燥な申立ての言葉に書き換えられることだってある。濃厚で非連続な時間と、職場の勤務という連続的な時間の往復は、人に途方もない無理を生じさせるのだ。それが訴訟という形で表出するとき、また別の物語と解釈が一人歩きする。

2013年10月25日号