連載エッセイVol.77 「面白いことは無数にあるのだろうか?」 石浦 章一

2014-01-07

「何か面白いことない?」というのが自分でも口癖になっていた。言われた人は困っていたに違いない。最近、この言葉が自分の口から出てこないことに気づいてしまった。人間は、本当に忙しいと余計なことを考える暇もなくなる、というのが実感である。忙しいのか、情報処理にかかる時間が老化と共に上昇したのかは定かではないが、本を読む速さは数年前と同じだから、そう急に頭が悪くなったはずはない。とすれば、今年出した論文の数が例年よりも少ないので、多分、研究以外に取られる時間が多くなったのだろう。自分の時間が少ないと、興味の幅が狭くなる。電車の中で読む本も、専門に近いものになりがちだ。これではいけない。

自分のことを棚に上げて申し訳ないが、興味の幅が狭くなることが学生さんたちと科学コミュニケーションが成り立たない1番の理由である、と最近思うようになった。彼らは、授業中でも、自分に興味がないことに対してほとんど注意を払わない。教室でなかなか議論にならないのは、そもそも「共通の関心」というものが成立しないからである。その原因の一端は、余裕を持って授業できない私にあるのかもしれない。

例を挙げると、遺伝子組換え食品は怖い、というのが一般の人の考え方である。なぜ怖いか説明ができないが、食べて安心だという科学的証拠もないので嫌だ、というのが多数派の意見である。組換え植物を作っている会社が儲けているとか、組換えでないことをブランドにしたい、という確信犯的な人はほんの少数で、大多数は自分の健康にメリットのない(そもそも関心のない)「バッシング対象」を叩く快感に酔っているようである。賛成、反対両派が議論しても、学生さんに議論させるロールプレイを行っても、統一見解に持っていくプロセスが、なかなか築けない。それは、個々の関心のありかが違うせいであろう。

私は教師として、クラスに入った途端に学生と同じ目線に立ち、これ面白いよね、と自分の専門を紹介したい。面白さが伝わらなくなった日が引退と決めている。その日が、極限値に収束するようにだんだん近づいているのがわかるのが怖い。

2013年12月18日号