プログラムの必修授業「科学技術コミュニケーション基礎論I」は、科学技術コミュニケーションの基礎についてプログラム担当教員のほか、さまざまな立場から第一線で科学技術コミュニケーション研究・活動に携わっている先生方をお呼びして講義をしていただく、オムニバス授業となっています。
3回目は、東京大学大学院総合文化研究科特任准教授の内田麻理香先生に「科学技術コミュニケーションのモデル」というタイトルでご講義いただきました。講義では、さまざまな事例を交えながら、多くの人が陥りやすい「欠如モデル」とは何かを考え、それにまつわる誤解を紐解いていかれました。
なぜ科学技術コミュニケーションが必要か
科学(および技術)は現代社会には欠かせない知的基盤ですが、専門性を身につけた科学者の数は限られています。一般の人々が現代社会の中で安心して暮らしていくには、科学者を知識面や道徳面で信頼する必要があります。しかし、東日本大震災と原発事故の際など、科学者への信頼はしばしば失われてきました。科学者に対する信頼を醸成することを目的のひとつとして、科学(技術)コミュニケーションがあります。
古典的な仮説(欠如モデル)から新しいモデルへ
科学コミュニケーション論は、欠如モデルへの批判とともに発展してきました。欠如モデルというのは、次のような考え方のことです:人々が科学を信頼しないのは科学的知識が欠如しているからだ。だから、人々に科学的知識を与えれば、科学への信頼が回復する。
これは、科学に限らず例えば好きなアニメについて人に紹介するときなど、普段のコミュニケーションでも陥りがちな考え方です。しかし、例えばバイオテクノロジーに関する調査によって(Bucchi & Neresini 2004)「市民に科学的知識を注ぎ込めば、知識の欠如が解消する」ことと、「市民に科学的知識を注ぎ込めば、信頼が得られる」という仮説は共に否定されています。
そこで、欠如モデルとは異なるさまざまな新しい科学コミュニケーションのモデルが提案されてきました。例えば、文脈モデル(受け手のニーズや状況に注意を払って科学的知識を与える)や、市民参加モデル(科学者と市民が共に社会的課題解決や政策決定などに意見や知識を反映させる)などです。しかし、正解のモデルが提示されているわけではなく、それぞれのモデルを状況に合わせて使い分けるのがよい、という議論にとどまっているのが現状です。
欠如モデルと一方向モデルの一体視とその弊害
欠如/非欠如モデルとは別に、科学コミュニケーションが一方向的か双方向的かという軸があります。テレビや講演会、書籍などは科学者から市民への一方向であり、市民を含めた会議や科学者と市民が同じテーブルで語り合うサイエンスカフェは双方向だと考えられます。一方向と双方向ともに利点と欠点があり、欠如/非欠如とは根本的に異なる軸であるにもかかわらず、「人々に科学的知識を与える」というイメージから、一方向モデルが欠如モデルと一体視され、批判の対象となってきました。
例えば東日本大震災後、それまでの科学コミュニケーションが効果的でなかったことへの批判において、欠如モデルの発想で行われてきたコミュニケーションへの批判が、一方向のコミュニケーションへの批判、さらには「楽しさ」を強調した科学コミュニケーションへの批判まで発展しました。震災後の科学技術白書(文部科学省)にも、一方向コミュニケーションへの反省の文言が記載されています。しかし、「楽しさ」を伝えることや、一方向で伝えることが問題の本質ではないはずです。英国では、150年以上、クリスマスレクチャーという一方向型の科学者による講演会が市民に広く受け入れられ、結果的に市民の科学知識の醸成に繋がっているという例もあります。
また、この批判は、双方向であれば問題ないという誤った認識を生み、双方向を装った欠如モデル型コミュニケーションが行われました。例えば、ある原子力施設に関する「サークルミーティング」は、一見、市民参加の非欠如的コミュニケーションであるものの、実際は市民の説得を目的とした欠如モデル的活動だったと考えられます。双方向コミュニケーションは科学者が直接市民と対話することができるのがメリットですが、その反面、受け手の情報の受け取り方をコントロールしやすく、実は説得を目的とした欠如モデル的活動に陥りやすいという点が懸念として挙げられます。
欠如モデルの問題点と枠組みの限界
欠如モデルの詳細な定義は論者によってさまざまですが、欠如モデルの問題点は、有事のとき、「知識がないから不安になっているだけ」という前提でコミュニケーション活動をすることで逆に市民の不安を増幅してしまうことや、行政が市民の懸念を「不合理」と捉えて傲慢な態度をとることではないか、と内田先生は指摘しました。
不適切な科学コミュニケーションを考える際に、欠如モデルという枠組みでは不十分であるという見方もあります。今の枠組みでは、「一般市民は適切な自然の知識が欠如している」とみなすこと自体を問題視することになり、科学報道や講演会、博物館における展示なども批判の対象となってしまうとのことです。内田先生は、より丁寧に科学コミュニケーションの問題点を論じるために、より詳細なモデル化や議論が必要だとご説明しました。
質疑応答/「科学」とは何を指すのか
「科学に対する信頼が失われる」という文言において、「科学」が何を指しているのかという質問がありました。科学者なのか、科学という体系なのか、それから得られた知識なのかによって、微妙に意味が異なりますが、たしかに、この講義ではその区別はされていないとのことです。各事象についてどこまで信頼が失われたのかは様々かもしれず、新しい論点として考える余地があると話されました。
質疑応答/目的意識を持つこと自体が問題なのか
講義内では、原子力施設に関する「サークルミーティング」のほかに、放射性物質トリチウムを「ゆるキャラ」化して処理水の海洋放出への理解を求めたキャンペーンや、震災後の34学会の会長声明における風評被害をなくすための安全キャンペーンともとれる宣言が、欠如モデルに基づくと指摘されました。これらの事例について、他者への説得などの目的意識を持つこと自体が問題であるように捉えられるが、一方で、何かを伝えようと思ったときに目的意識を排除することは不可能ではないかという指摘がなされました。これに対して、内田先生からは、目的自体が間違っているかどうかがポイントであるという考え方が示されました。例えば、クリスマスレクチャーは、寄付を募ることが目的のひとつですが、「科学者が講演することで寄付をしてもらいたい」という目的意識と、「科学者が講演することで寄付が集まるべきだ」という意識は異なります。一方、目的意識として、政治的立場が科学的知識を伝えることより優先されてしまうことが、問題を生むのではないかという考え方も提示されました。また、” Everything is political” というように、何かを伝えようと思ったときに目的意識を排除することは不可能という点に同意の声が挙がりました。
自分の感想/欠如モデル的コミュニケーションを防ぐために
欠如モデルの事例を聞いて耳が痛くなったのは、私自身、このような失敗を何度かしてきたからです。例えば父に将来科学コミュニケーションに携わりたい話をしたときに、「なんか偉そうだ」と不機嫌にしてしまったことがあります。無意識に「科学がわからないのはよくないことだから、私が教えてあげる」という欠如モデル的な発想になっていたのだろうと、講義を通してわかりました。
どうしたら欠如モデル的コミュニケーションを防げるのか。私は下記の2つの前提を科学者と非科学者が共に認識することが必要ではないかと考えます。
- 科学は時間や条件が揃えば真実に近づける有力な方法だが、そこには限界(時間的、労力的制約やデータ数の制限)があって、常に正解を導く方法ではない。
- 科学が限りなく正解に近づける状況においても、科学を用いて物事を考え判断することを優先しない人たち(例えば経験に基づいて判断を下したいという人たち)を否定することはできない。一つの判断方法として尊重するべきである。
非科学者が、あたかも科学に強制力があるように捉えると、それへの反発心から科学が導いた事実すら受け入れがたくなるのではないでしょうか。また、科学者自身が科学に強制力があるように錯覚すると、それに従わない者を「非合理」だと捉え、排除する心理に繋がりかねません。さらに、科学を絶対的なものだと考えることで、その科学に従事している科学者と非科学者の間にあるはずのない上下関係を錯覚する可能性があります。
これらの結果生じる、相手に選択肢を与えない、または、与えていないように見えるコミュニケーションが欠如モデル的コミュニケーションなのではないでしょうか。よって、私たち科学者が相手に選択権があることを明示したコミュニケーションを心掛けるのはもちろん、これらの前提を啓発してコンセンサスが得ることが、科学者と非科学者のコミュニケーションを円滑にすると考えます。
小林 柚子(新領域創成科学研究科 博士3年/18期生)