「公衆の科学理解(PUS)」定松 淳 先生

2022-10-11

プログラムの必修授業「科学技術コミュニケーション基礎論I」は、科学技術コミュニケーションの基礎についてプログラム担当教員のほか、さまざまな立場から第一線で科学技術コミュニケーション研究・活動に携わっている先生方をお呼びして講義をしていただく、オムニバス授業となっています。
第2回目は、定松淳先生に「公衆の科学理解」についてご講義いただきました。定松先生は東京大学大学院総合文化研究科にて科学技術インタープリター養成部門の特任准教授を務め、本プログラムへも教員として関わっておられます。

「科学的な知識を提供すれば、公衆は科学技術を支持してくれる」か?

科学者が公衆(Public)の科学理解を進めようとするとき、「公衆に科学技術をもっと理解してもらえれば、科学技術を支持してくれるようになる」という想定に陥りがちです。しかし、これは本当でしょうか。さらに「そもそも公衆は科学について知りたいと思っているだろうか?」「科学的知識がないことは愚かなことだろうか?」という問いも浮かび上がってきます。この「公衆(=非専門家)は知識が欠けており、知識を提供することで科学技術を支持してくれるはず」という思い込みを「欠如モデル」と呼んで批判したのがイギリスの研究者であるブライアン・ウィンでした。

ブライアン・ウィンのイギリス・カンブリア州における事例研究

ブライアン・ウィンは、特に危機的な(例:事故や感染症などの問題が発生している)状況では科学が弱さを露呈する可能性があることを、イギリス・カンブリア州の放射性物質汚染に関する事例研究の中で示しています。
カンブリア州には牧羊が営まれる高地がありますが、1986年のチェルノブイリ原発事故によって放射性物質を含んだ雲による降雨を受けてしまいます。当時、政府は「放射性物質による汚染はすぐに下がる」と発表しましたが、汚染は下がらず、カンブリア州の羊の出荷に規制が課せられたことで、羊農家へ大きな経済的影響が生じました。
この際、科学者によるカンブリア州の羊のセシウム濃度に関する調査研究が進められました。しかし、この危機的な状況において科学者達は「なぜ高地の羊のセシウム濃度が下がらないのか?」「なぜ汚染が湖水地方に集中しているのか?」という問いに対する明確な答えを導くことができませんでした。これに対し、羊農家の間では「汚染はチェルノブイリ由来ではなく、カンブリア州に位置するセラフィールド原子力関連施設に由来しているのではないか」という見方が広がっていました。そして最終的には、1957年にセラフィールド原子力関連施設で原子力事故が発生していたことが判明し、科学者によるセシウムの同位体のデータとすり合わせると、チェルノブイリ由来の汚染とセラフィールド由来の汚染が50:50程度に影響していたことが明らかになりました。

住民や非専門家の知識(ローカルナレッジ)論

ブライアン・ウィンの事例研究が示すように、危機的な状況における現実の問題に対しては、科学者が平均的な状況で用いる手法(例:例外の切り捨て)の弱さが露わになることがあります。これに対し、羊農家は地域の文脈に基づく知識によって判断を行うことができました。ブライアン・ウィンの事例研究は、このような「住民や非専門家である当事者の深い知識(ローカルナレッジ)の重要性」を提起しました。

質疑応答/なぜ科学者はセラフィールド原子力関連施設の影響に気づけなかったのか?

ここで学生から「この事例で科学者がセラフィールドの影響に気づくことができなかったのは『科学そのものの弱さ』か、あるいは『科学者個人のミスか』」という質問が上がりました。例えば「例外の切り捨て」そのものが悪いのではなく、担当した科学者の「切り捨て方」が悪かったのではないか、という疑問でした。
定松先生によるとこれは議論が分かれるところだそうで、ここで大切なことは「専門家的な教育を受けているからこそ、見えないこと・気づかないこともある」「現場の非専門家の方が気づきうることも存在する」点を忘れないことだ、という補足説明をいただきました。

自分の感想/「科学的な正しさの軸」と「公衆の文脈の軸」の2軸のバランスを考える

科学的知識を公衆に発信する際、「科学的に正しい」知識を伝えることは前提です。しかし、人は「科学的な正しさ」のみに基づいて生きてはいない、という説明が講義の中で印象的な点でした。たしかに、人によっては生活の中で統計的に「より得をする確率の高い選択」よりも「より損をする確率の低い選択」を好むこともあります(私個人もとても心配性なので、この点では全く科学的ではありません)。
科学的に正しい知識は、それだけでは完全ではなく「公衆の文脈(相手はどんな知識を持っていて、科学的知識は相手の文脈の中でどのような意味をもつか)」との2軸のバランスを考えながら発信すべきである、という結論が心に残った講義でした。

松原 花(農学生命科学研究科 水圏生物科学専攻 博士1年/18期生)