話題の映画『オッペンハイマー』を観てきた。原爆を開発するマンハッタン計画を指揮した物理学者、ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いているため、日本でも注目が高い映画である。
「原爆の父」オッペンハイマーは、自身が開発した原爆の被害にどう向き合ったか。彼は、人類初の核実験が成功したとき、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い起こしたと回想している。
「今、われは死となれり。世界の破壊者となれり」
これは、彼が「世界の破壊者」となったことへ反省の表れだという意味で引用されることが多いが、藤永茂は反対意見を述べている*1。オッペンハイマーのヒンズー教への傾倒は本格的だった。この「われは死となれり……」は、ヒンズー教の神クリシュナが「光の子」として現れたときの言葉だ。爆発の閃光を目にしたときの彼が「私たちは『光の子=クリシュナ』を作った」と連想した、と解釈するのが藤永である。私もその藤永説に同意で、拙著*2でオッペンハイマーを取り上げた際この解釈を紹介した。映画でも原爆開発前後の彼の心情に徹底的に踏み込んでいるのだが、やはり実際に原爆が投下されるまでの彼は自分の犯した罪を自覚していない様子である。
しかし、広島、長崎の惨状を知り、ようやくオッペンハイマーの苦悩が始まる。この映画の後半での彼は、理不尽な聴聞会に耐え、罪に向き合う殉職者のような姿である。私も拙著では彼を「逃げなかった男」と評し、晩年の彼は罪を引き受けたという理解をしていた。
しかし、国際政治学者の藤原帰一は映画評*3の中でオッペンハイマーを「核廃絶に向けては〝何もしない人〟」と手厳しい評を下す。確かに歴史を振り返ってみればその通りである。第二次大戦後には、核兵器の廃絶や平和利用を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出されたわけだが、そこに彼が加わっているわけでもない。
この映画は、科学コミュニケーションの重要テーマである「科学者の社会的責任」について考える格好の教材である。自分がオッペンハイマーだったらと想像すると、その立場の難しさも理解できる。しかし、彼の状況だったらできなかったことも、その後の先人たちの積み重ね*4を学ぶことで、今に生きる私たちは自らの社会的責任に向き合うことはできるはずなのだ。
*1 藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』ちくま学芸文庫
*2 内田麻理香『面白すぎる天才科学者たち』講談社
*3 https://hitocinema.mainichi.jp/article/oppennheimer-itsudemocinema 「藤原帰一のいつでもシネマ」『ひとシネマ』
*4 藤垣裕子『科学者の社会的責任』岩波科学ライブラリー