連載エッセイVol.203 「コミュニケーションにおける代弁の意味」 塚谷裕一

2024-07-25

 サイエンスコミュニケーションが必要になる場面の一つに、代弁というものがあると思う。それは例えば私にとって、物言わぬ動植物の代弁である。

 以前、ある企業の方から、雑草のタネをきれいなデザインのパッケージにして配るという企画をコンペティションに出したいので、助言をいただきたいと連絡を受けた。聞いてみると「雑草」というものについて漠然としたイメージだけで拵えた企画だとわかり、戸惑う。私は物言わぬ植物のために代弁をする。今日では、店で買ってきたメダカを池や川に放つ行為は、保全生態学的に非難の対象となること。それは「雑草」でも同じであり、近縁種どうしで起きる繁殖干渉という排他的現象などにも配慮が必要であること。なによりも、いわゆる雑草の多くはタネに強い休眠性があって、蒔いてもおいそれとは発芽しないことなどである。先方の方はたいへん不満そうだったが、私が言わねば植物は言えないのだ。

 あるいはキャンパスのソメイヨシノが枯れてきたというので現地視察に行ってみると、あにはからんや、太幹をバッサリ切ってあり、そのあと一度も芽吹いた形跡がない。あきらかに「桜切るバカ梅切らぬバカ」の典型。幹切断のタイミングやケアが不適切だったための枯死である。ところが机上の知識から「ソメイヨシノは寿命が短いので云々」とのたまう先生がおられる。ここで反論すると人間同士は気まずいことになるが、やはりここは物言わぬ植物の代弁こそ大事だろう。この桜はつい最近まで咲き誇っていたこと、茂りすぎたので大規模に切られただけで、明らかに寿命ではない、人災であると主張する。加えて、わが附属植物園育成部の専門家にも追加で診てもらい、やはり同じ見解を得、それを改めて関係者に伝える。いずれも、物言わぬ植物の代わりである。私が言わなければ、植物は寿命で勝手に枯れたことにされてしまい、泣き寝入りではないか。違う、無茶な業者の無茶な幹切断のせいだとは自分からは告発できない。物言わぬ植物の代弁は必要である。植物のためばかりではない。回り回って、よりよい人間生活のためにもだ。

 サイエンスコミュニケーションには、こうした側面もある。以上の話はたまたま植物の代弁だったが、これはもちろん人間社会においてもある話である。

『学内広報』no.1584(2024年7月25日号)より転載