科学をやさしく大衆に解説するのが科学コミュニケーションの本質とよく言われるが、そのような「上から目線」の言い方は、最近の子どもたちの「感動を与えたい」という言い方と同じで、「そんなことお前に教えてもらわなくてもいいよ」という反発につながるのは必至である。また逆に、科学コミュニケーションは一般の人たちが専門家に無知な質問をぶつけたり、いわんや感情的意見を主張するというたぐいの欲求のはけ口というものでもない。大衆の科学理解(Public Understanding of Science)というのも都合の良い言葉で、細かな専門用語を使った本質的理解を求めるのではなく、「専門家に都合のよい部分を一般に納得させる」というガス抜きの意味合いが強い。
なぜこういう話をするかというと、例によって外国の物まねで、科学コミュニケーションを小中高に下ろす動きがあるからで、この子たちに何を科学コミュニケーションとして教えるかが問題になるからである。知的なコミュニケーションをとるためには、お互いの能力や興味が一致しなければならないが、自由研究を壁新聞で発表することが科学コミュニケーション、と教えられたのでは子どもたちもたまったものではない。
周りを見回しても疑似科学などが依然としてはびこっているようなので、私は、小学校から科学とは何か、そしてそれを学ぶ意義、をまず教えるのがいいと思う。何か面白い現象に着目し、なぜそれが起こるかを考える。仮説を立て、正しいかどうか何度も実験する。仮説が間違っていれば直し、再び検証する。最後に、その社会的意味を考える。
大学1年生でDNAを学ぶ理由の1つは、DNAの違いからヒトをはじめとする生物種間の多様性が生まれるだけでなく、時間とともにそれに変異が生じ、最終的に進化に結びつくことなのだが、学生は難しい遺伝子名や反応の順序を覚えることが大事、と考えているらしい。これも知的コミュニケーションのギャップによるもので、大学生がこのように考えるのは「DNAを勉強する本質」の理解、すなわち生命のふしぎについての疑問、が中高で語られていないからなのではなかろうか。
もっと大切なのは、科学リテラシーとか大衆の科学理解など諸外国からの受け売りを叫ぶのではなく、我が国の科学教育の基盤を整備して独自の科学観を養うことである。教科書の内容についても、海外の有名教科書にのっているかいないかで取捨選択が決められるという噂を聞いて、この程度なのかと涙が出るほど恥ずかしく思ったことがある。日本人だれもが科学用語を理解し、当たり前のこととして環境問題を議論しながら人類の行く末を話し合うくらいのことはできないのだろうか。
2012年4月23日号