人間を対象とした研究を、ジョルジュ・バタイユは「体験の方へできるだけ発展しないようにしている研究」と「体験のほうに決然とすすもうとしている研究」に分けている。そして、データに基づく研究に対し、「学者の体験が作用しなくなればなるほど、彼らの仕事の真正性が増す」とする。これは、「個人の恣意性の排除がすすむほど、客観性が増す」ことに相当する。
人間を対象としたサイエンスには、個人の恣意性の排除による客観性の確保が必要となる。それに対して、人文学(ヒューマニティ)の場合は、あるところまで恣意性を排除するにせよ、主観性を禁止していたら成り立たないところがある。そこで次の問いがでてくる。主観性を禁止するサイエンスだけで、人間のことは理解できるのだろうか?
例えば、精神医学あるいは応用心理学という分野では方法論争があり、誰がいつやっても再現できるということを重視し、個人の恣意性の混入に禁止をかけている研究群と、最初からそのような禁止をある程度はずさないと研究できない研究群がある。精神科研究には多数例研究と個性記述研究とがあり、多数例研究で用いられる変数は、診断基準による病名、年齢、性別など、個人の恣意性は混入せず、操作的に一意に定まる変数である。それに対し、個性記述研究で用いられるのは、家族との関係、会話、職場での人間関係、勤務の履歴、初診時の心象、医師の質問に対する反応などであり、個人の恣意性の混入への禁止をある程度はずさないと記述できないものもある。操作的に一意に定まる変数だけだと、個性記述研究はできないのである。
同時に、人間の体験の育成にとって人文学が果たす意義もある。体験の育成とは、ドイツ語の教養の語源であるBuildungsである。「体験のほうに決然とすすもうとしている研究」は、科学的という禁止を外すことによって、つまり誰にでも当てはまるということを目指さないことによって人間の体験の育成に役立つ。主観的なものを禁止するサイエンスだけでは体験の育成、そしてリベラルアーツ教育は成立しない。逆説的なことに、科学技術インタープリターの養成における体験の育成は、サイエンスだけでは成立しないのである。
2016年9月26日号