連載エッセイVol.143 「科学者は変わるか」 定松 淳

2019-07-11

というのは、昨年亡くなった科学史家の吉岡斉さんの著作のタイトルだ。『原子力の社会史』で知られる吉岡さんだが、その若き日の実質的なデビュー作である。

私がこの本を初めて読んだのは、大学院の修士課程の時だった。今大阪大学におられるHさんやNさん、そして東京海洋大学におられるKさんといった先輩方との読書会で報告を担当することになったのだ。当時科学論をまだあまり勉強していなかった私には(←完全に言い訳である)、この本は全くわからなかった。「この本は他人の考えを紹介するばかりで、面白くない」。Hさんがいろいろ反論してくださったのだが、私は「そうですかねえ」。無知とは恐ろしいものである。

しかし博士課程に入って自分の研究のなかで科学者を扱うようになり、この本のタイトルが思い出されてきた。「あれ? あの本は結局、科学者はどうだって言ってたんだったっけ?」改めて手にとって吉岡さんの結論を探した。するとこう書いてあって衝撃を受けた。「科学知識の生産機構そのものに、自己点検機能は本質的に欠落している」(34頁)。全くその通りで、科学というシステムは知識の生産を最優先している。例えばそのためなら無償で論文の査読を行うことも厭わない。そしてその知識がどう使われるかとか、その知識を生み出した人物の倫理性だとかは二次的に扱われるのである。透徹した社会学的認識だといえる。

ところがポスドクになったころ、もう一度この本を見返す機会があって、私はもう一度衝撃を受けることになった。上の文章の後ろには更に次のような文章が続いていたのだ。自己点検機能は欠落している、だから科学知識の生産者という「役割人間からはずれたところにある、科学者の人間性だけが、社会的責任を発展させていくための、よりどころなのである」。人間性というと少し道徳的に聞こえてしまうが、要は「人間としての体験の総体」ということだ。吉岡さんはシステムを越えていくものが何であるかも見通していた。それどころかむしろそれがあの本の出発点だったのだ。

インタープリター養成プログラムもこれと同じだと思う。副専攻など履修しなくても、研究者をやっていくのに何の支障もない。しかし、自分たちの営みが社会のなかでどうあるべきなのか、それを自分で考えたいというパッションなしでは、科学がより良いものになることはない。そんな志をささやかに抱いた学生たちと、今年もまた出会えることを楽しみにしている。

『学内広報』no.1523(2019年6月24日号)より転載