連載エッセイVol.170 「OEDと市民科学とgoogleと」 松田 恭幸

2021-10-26

ある休日、世界最高峰の英語辞書と名高いオックスフォード英語辞典(OED)の編纂過程を描いたノンフィクション『博士と狂人』(ハヤカワ文庫)を読んでいると、次のような文章が目に留まった。

「大辞典の編纂は、1857年の(中略)講演によって始まった。(中略)この計画に着手するには、一人の力では足りない、とトレンチは言った。(中略)何百人もの人びとで構成される巨大なチームを作り、アマチュアの人たちに“篤志協力者”として無給で仕事をしてもらわなければならない」

これは市民科学の最初の例ではなかろうか。市民科学とは専門家と市民が協働して科学研究を進めようという試みを指し、科学の進展につれて距離が開いていった市民と研究者を、さらには政策決定とを結びつける可能性の一つとして注目されている。その源流が一般的には自然科学の範疇には含められない言語学や辞書学に求められるとしたら、これは中々興味深い。

そう思い、明日は大学図書館に行って色々と文献を調べてみようと考え始めたところで、ついググってしまった。するとナショナル・ジオグラフィック誌のウェブ記事に、1833年のしし座流星群の大出現のとき、天文学者のオルムステッドが目撃情報の提供を新聞紙面で呼びかけたところ、全米から多くの情報が寄せられ、それを元に彼は流星の起源や性質について様々な発見をしたというエピソードが紹介され、これが市民科学の誕生と言えるだろうと書かれているのが見つかった。OEDの編纂は市民科学の最初の例ではないかという私の思い付きは15分で否定されてしまったのである。そして私は翌日に図書館に行く意欲を削がれてしまい、今も結局調べていない。なんと寂しいことだ!

グーグルの検索は、少数の文献に限られることなく幅広く情報を収集し整理しようとする点に特徴があり、誰もが受け入れやすい結論が容易く得られる。こうしたネット検索の特徴は、専門家集団の知見とスキルに縛られずにオープンな研究をしようとする市民科学のアプローチに類似する点があるようにも思われる。

私がネット検索から得た結論(らしきもの)に満足してしまった寂しさに相当するものが、市民科学にもあるのだろうか。市民科学の活動の中で、専門家が市民に迎合した形の結論や判断に満足してしまう危険性はないだろうかということが、(自分の怠惰な性情を棚に上げて)今は気にかかっている。

『学内広報』no.1551(2021年10月25日号)より転載