科学コミュニケーターのみなさん、質問されたとき、「ですから」で答え始めることはありませんか。
祖父はアパートを1軒残してくれた。父は89歳で死ぬまで管理にあたっていたが、死の1年ほど前から、請求のしわすれなど、問題が生じるようになった。私が、「管理を委託しているKさんが201号室の契約書を確認したいんだってさ」と問うと、「だから、201号室は契約書なんてないんだよ」と父は憮然として言い放つ。ここで、私の思いはアパート管理業務を離れる――親父はこうした「だから」をよく使う。しかし、この「だから」って一体何なんだ?
「だから」の基本は、「前に述べた事柄を受けて、それを理由として順当に起こる内容を導く」(『大辞泉』)場合だろう。「真冬に薄着でいたのか。だから、風邪をひいたんだな」といった用例が思い浮かぶ。父の「だから」には、「前に述べた事柄」が存在しない。この用法ではない。
「そのような望ましくない結果が自分には前もって予測できるものであったことを表す」(『広辞苑』)語義はどうか。1958年、松山 恵子さんの歌謡曲「だから言ったじゃないの」がヒットした。「あの男とつきあうと貴女は嫌な目に遭うに違いない。だから、そうならないように予め言っておいたのよ」。将来予測=理由と忠告=帰結の関係があるのだから、この語義は先の派生形態なのだろう。嫌な思いを味わった時点で、将来予測=理由が両者に共有されたため、「前に述べたこと」が省略されたと考えられる。父の「だから」発言では、私とのあいだで共有されている理由など存在しない。これでもない。
理由を父の友人周辺に探ってみると、父のごく親しい友人Nさんから、Nさんの友人Sさんを入居させてくれないかと頼まれ、二つ返事で引き受け、Nの紹介なら契約書みたいな杓子定規なことはせずともよいといい顔をしたといったところらしい。半世紀以上一緒に暮らしているのだから、私もおおよそ知っているのが当然と想定し、「だから」を連発したのではないか。しかし、知識の共有は当然のことではない。自分の知っていることは相手も知っていて当然であり、知らないとしたらそれは相手の怠慢だとするある種の傲慢さが、私に違和感を起こさせたのだろう。
科学コミュニケーターのみなさん、質問に「ですから」で答え始めたとき、そうした傲慢さを伴っていませんか。聴衆は敏感です。どうぞご注意を!