「正確な伝達の緊張感」 塚谷裕一

三島由紀夫の『小説読本』に、有名な一節がある。

舞良戸というものを作家が作品の中に登場させるとしたら、それがそこにおいて舞良戸ではなくてはならない必然性があるわけだから、端的に「舞良戸」とだけ書くべきである、それだけで読者もはっきり「ああ舞良戸か」と理解する、そういう読者こそが「私の読者」だ、というくだりである。それを、「横桟のいつぱいついた、昔の古い家によくある戸」「横桟戸」「まひらど、といふのか、横桟の沢山ついた戸」などと書く作家は、覚悟がないと断罪する。

先日、インタープリター養成講座の受講生と、彼女が以前に書いた小説について吟味し議論する機会があった。そこで指摘した課題の一つに、盆栽があった。登場人物が、歴史と長い時間ときめ細やかな技術の蓄積のもとに作られた建築物の美に打たれ、それに代わるものとして盆栽を思いつき、夜店で買い求めるという場面である。ここは私にとって大変違和感の強いところだったので、受講生に聞いてみた。

「この盆栽はどんな盆栽ですか」

案の定というべきか、具体的なイメージを彼女は持っていなかった。そうだろう、子供の頃からの植物愛好家である私にとって、この作品の中の「盆栽」は、どうにも具体的にイメージができない違和感があったからだ。作者が明確なイメージを持たず、観念だけで入れてしまったことが、逆に具体的なもののイメージを持っている読者にとっては、完全にすれ違いとして見えてしまったのである。

同じような経験は、プロの作家の作品でも見ることがある。ただいま放送中の、NHK朝ドラの主人公が牧野富太郎ということで、にわかに牧野富太郎に関連する書物がたくさん出ている。そのブームを先取りする形で先に出た小説『ボタニカ』(朝井まかて作、祥伝社、2022年)である。ここでも、やはり植物愛好家である私にとって、読んでいて違和感を覚える場面がいくつかあったが、極めつけは牧野と、小石川植物園に当時居た平瀬作五郎との間の人間ドラマのくだりの一コマである。

これまで、イチョウに精子があることを発見し、日本に植物学あり!と世界に示すことに初めて成功した平瀬作五郎についての話は、いろいろなところで語られてきたが、同時代人であり、小石川植物園の縁でもつながっていた牧野富太郎との間の、人間関係や感情のやり取りは、ほとんど誰も語ってこなかった。その点、これを作品の半ば、ほぼ中央に据えたのは、小説の構成としても非常に意義のあるものだと思う。

だが、おそらく朝井氏はイチョウの精子の「姿」について、具体的イメージを持たないまま、「精子」という観念から作品を書いてしまったようだ。問題のくだり(「八、帝国大学」から)を引用する。

平瀬は今年一月、昨秋に作成しておいたプレパラートを顕微鏡で観察中、ついに鞭毛を持った小さな虫らしきものを発見した。

『ボタニカ』朝井まかて

この段階で読者としては不安を覚える。「鞭毛・・・?」私達ヒトの精子と違って、イチョウの精子には鞭毛はないはず・・・。

そしてページをめくっていくと。

 生の銀杏の薄片を顕微鏡で観察中、視界を横切ったのだという。接眼レンズに眼を押しつけるようにして確認すれば鞭毛を持った球状の小さな虫で、後ろに尖鋭な尾状のものを具有している。

これは致命的だ。

ここの何が問題か。この描写では、イチョウの精子はまるで我々ヒトの精子のようにスッと泳ぎ去っていくように書かれている。しかしイチョウの精子は、実は精子と言いながら、ヒトの精子とはまるで形も泳ぎ方も違うのだ。ヒトの精子の形はご存知だろう。ごく小さな頭部を持ち、一本の長い鞭毛が体の大部分を占める。スイスイと泳ぐ。

しかしイチョウの精子は、あれとはまるで違って丸く太った、コロコロした形をしている。また一本の長い鞭毛でさっそうと泳ぐのではない。その丸い本体の前半四分の一くらいの表面に、螺旋状に並んだたくさんのごく短い繊毛を動かして、いかにもぶきっちょに、くるくる回りながら、やや尖った繊毛のある側を先端に泳ぐのだ。体の後ろには尾などなく、球面で終わっている。ぜひとも実際の動画を検索してみていただきたい。たとえばNHKの教材サイト、あるいは東京シネマ新社の作品がわかりやすい。皆さんのヒトの精子のイメージとは、まるで違うのがおわかりだろう。これは朝井氏の描写とも根本的に異なる。

 冒頭に紹介した三島由紀夫の場合は、作者が鮮明に具体的イメージを持っていて、それを読者が正確に読み取れるか、というところがポイントとなっていたが、その関係性は当然ながら、逆転することもある。作者と読者の間の関係性は、それほど本来、緊張感に満ちたものなのだ。

それは小説作品に限ったことではない。科学コミュニケーションにおいては、科学という生活一般からはどうしても離れがちな内容・考え方が主眼となるため、その緊張感はさらに高いものとならざるを得ない。その厳しさに自覚的かどうかは、伝達の成功・不成功に大きく響くものである。