連載エッセイVol.189 「科学コミュニケーションの一番底に」 定松 淳

2023-05-25

コロナ禍が漸く落ち着いてきて、久しぶりに活気のあるキャンパスが戻ってきた。人の多い教室はまだ少し落ち着かない気がしてしまう一方で、17時過ぎの駒場キャンパスを歩いていると、教員のパワポを映すために前方が仄暗くなった教室に3人とか5人だけの学生が参加して、しかし熱心に教員の方を見ながら進んでいる授業も見かけるようになった。私にもそんな授業の記憶がある。教養学部2年の時に履修したドイツ語のK先生の授業だ。カフカの小説「判決」を原文で読むという授業で、やはり夕刻、履修者は3人だった。

「判決」は短い小説で、岩波文庫に翻訳が入っている。先に一読したが、ちょっと意味不明な結末で、全く理解できなかった。ドイツ語の初級しかとっていなかった私は、岩波文庫を原文に付き合わせながら、毎週この短編を読み進めていった。しかしそうして丁寧に読み進めていったうえで最終回にディスカッションしてみると、意味不明に思えた結末は理解可能なものに変わったのだった。

私はドイツ文学を志していたわけでもなく、ドイツ語を何かに役立てようという計画も持っていなかった。ただ一文一文を理解してゆくプロセスが面白く、履修を続けたに過ぎない。そこには「何かがわかっていくこと自体が心地よい」という感覚が存在していたと思う。冒頭の教室の学生たちも、必ずしもその授業に出たら何か得することがあるから参加しているわけではないだろう(マイナーな、遅い時間の授業だから)。でもそこにはやはり、「これをわかりたい」「わかること自体が楽しい」という感覚があるのではないか。

私は科学(広い意味での学術)コミュニケーションの一番底には、こういう価値観が置かれるべきだと思っている。科学の面白さ・楽しさを伝えたいという科学コミュニケーションは多いが、そこには研究費の獲得や、国策としての科学技術振興といった目的が潜んでいることもある。あるいは科学リテラシーの向上が、健康や収入の増加につながるといった主張がされることもある。しかし「何かをわかるようになる」という体験は、それまでの自分ではない自分に生まれ変わる体験である。それは各自の可能性の発現であり、そのこと自体が目的とされるに値する。もちろん押し付けであってはならないが、功利を越えた価値が科学コミュニケーションの一番底に置かれていてほしい。

『学内広報』no.1570(2023年5月25日号)より転載