連載エッセイVol.15 「ギブスと日本海海戦」 岡本 拓司

2008-08-21

J. ウィラード・ギブス(1839~1903)は、大学の理科系に進んだ学生ならば、おそらく一度は名前を聞く機会をもつ科学者である。いずれも1・2年で学ぶ、熱力学・統計力学か物理化学の中に、ギブスの名前を冠した項目が現れる。ギブス自身が卒業し、教鞭をとったのはアメリカのイェール大学であるが、筆者は、同大学に東京大学が設けた日本研究の拠点に、昨年10月から今年4月まで滞在する機会を得た。この間の調査で、ギブスが意外なかたちで日本海海戦に関わっているのではないかと考えるようになった。

ギブスの指導下で博士号を取得した学生の中には日本人が一名いる。その名を木村 駿吉(1866~1938)という。木村は、帝国大学の物理学科を卒業したのち、事情があってアメリカに飛び出し、1896年にイェールで学位を取得した。帰国後しばらくすると、兄のすすめで海軍に入ったが、そこでロシアとの戦争に備えた無線電信の開発を担当した。無線の開発には、電気試験所の技術者の松代松之助や、海軍の外波内蔵吉も協力し、成果は三六式無線電信機として結実した。日本海海戦では、劈頭の「敵艦見ユ」の報以降、連合艦隊全体で盛んに無線での連絡が行われ、敵に見つかることを恐れて無線の使用を禁じていたロシアのバルト艦隊を圧倒した。

イェールで木村が取った講義のリストと、それらのノートを見るまでは、筆者は実は、無線電信の開発については、現実には技術者の松代の貢献が大きかったのではないかと考えていた。しかし、木村のとった講義の中に、ギブスの「光の電磁気学」と題するものがあり、それがギブス得意のベクトル解析で電磁波を扱ったものであるのを見て、考えを改めた。木村はギブスにより、当時世界の中でも講ずるものの少なかった、最先端の電磁気学のてほどきを受けており、この知識は無線電信開発に大いに役立ったものと思われる。

日本海海戦が闘われたのは1905年である。物理学史ではアインシュタインの特殊相対論の発表が思い浮かぶ。特殊相対論は、電磁気学的世界像による力学的世界像の超克を意味するといわれることがある。しかし、同じ時代の木村の例からは、同じ電磁気学であっても、状況に応じて様々な役割を演じていたことが分かる。1896年にイェールで光の電磁気学を講じていたギブスも、学んでいた木村も、これが十年後に日本を救う鍵の一つになるとは想像もしていなかったであろう。

2008年8月21日号