原子爆弾とポツダム宣言受諾の関わりを調べていたところ、戦争の継続を主張する論理が意外に崩しにくいことに気づいた。1945年8月6日の原子爆弾投下後も、ソ連を介した和平工作は続けられ、8月9日のソ連参戦を受けて終戦に向けた諸会議が始められる。原子爆弾で状勢が変わったとする主張に、広島に投下されたものが最初で最後の1発ではなかったかとの反論があったが、閣議の途中で長崎にも投下されたとの報がもたらされ、3発目以降があるとの了解が定着する。これで戦局に関する情報は出尽くしたが、陸相の阿南惟幾は継戦を主張した。理由は、連合国側が国体護持を保証しないからというものである。
阿南は、ソ連には勝てないと判断したが、米英相手の本土決戦には見込みはあると考えた。原子爆弾については、米兵の捕虜に暴行を加えて得た情報や、物理学者の仁科芳雄らから得た情報をもとに、米国は数百発を保有している可能性があるが対策はあると主張した(鈴木多聞『「終戦」の政治史』)。一方、武装解除と保障占領を条件とするポツダム宣言は国体護持を保証せず、受諾できないと判断した。軍事の専門家が主張するこの説は、論理的で崩しがたい。
終戦への道は、固い論理で粘る阿南を、国体は護持されるとなだめながら開かれていったが、その過程で、継戦にせよ終戦にせよ唯一の目的であった国体護持に代わる、或いは並ぶ目標が、議論の中に忍び込んでいった。国民の存続である。言い出したのは昭和天皇であり、初めは国体護持に次ぐ目的であったものが、終戦の詔書では宣言受諾の主目的となり、以後のラジオ放送などでも降伏の主な理由とされた。国体護持のみが目標であれば、それを明確には保証しないポツダム宣言の受諾は正当化しづらかったであろう。
昭和天皇は、原子爆弾登場後の本土決戦は民族の滅亡を意味すると考え、宣言受諾を決意した。明治憲法下の君主でありながら、陸軍大臣の判断は斥け、従来の議論には登場しなかった国民の存続を新たな目標に加えた。形式的に言えば異例づくめである。しかし、専門家の論理が入り込んだ袋小路で、生身の人間の感覚のみが新たな道を開きうることがある。そこにインタープリターの居る場所はないとも思わせる事例である。
2011年7月29日号