連載エッセイVol.51 「わかることと不可解であること」 藤垣 裕子

2012-02-09

科学技術をわかりやすく伝えることは、インタープリタープログラムにとって大事な課題の1つである。ではそもそも「わかる」とはどういうことか。「わかる」という日本語には多義性があることはVol.5(2007年6月13日号)ですでに述べた。「わかる」ことと書くこととの関係について、本学のある先生の傑出した文学書から引用する。

――― 一方が他方を包みこむという相互嵌入的関係を取り結ぶにいたった作者=「私」と、読者=「君」との完璧な合一、それは二極性の消滅という「根源的な交替」が実現される瞬間であると同時に、エクリチュール(引用註:書くこと)を駆動している最も基本的な原理の消滅という事態が出来する瞬間である。テキストが書かれうるのは、「私」と「君」とのあいだになんらかの差異、なんらかの距離が想定されるからであり(中略)、両者が完全に一体化して「2つの現存(原文は審級)間の弁別可能性」が解消されてしまえば、語の対象としての「君」は抹殺され、もはや「私」が語る意味はなくなってしまう。「語る」とはあくまでも――誰かにむけて語ることでしかありえない。(中略)したがって、逆説的なことに、「私」と「君」とが相互に理解不能であること、「不可解」であることは、いわば理解=包含への欲望を産出原理とするエクリチュールの営みが成立するための第一条件なのである。―――

文学書を読んでいてインタープリターの本質に言及する記述に出くわして、驚愕した。なるほど。インタープリタープログラムでは長いこと、「わかる」とは何か、わかってもらう文章を書くにはどうしたらよいのか、について考えてきた。しかし、理解=包含への欲望にかられて、わかってもらいたいから書くにもかかわらず、完全に「わかる」ようになってしまったら、もう書くことさえ成立しないというのだ。

あなたと私には差異があって、かつその差異が微小のとき、ようやく伝わる。でもその差異がとても大きいと、「何をいっているかわからない」。書くことというのは、常に誰かにむけてであるが、誰かと私とは異なる存在であるので、私は仮想の「私のなかのあなた」にむけて文章を生成するしかない。だから書くためには、「私のなかのあなた」が必要であり、生成されたコトバが「私のなかのあなた」ではなく、実在のあなたに届く保障はない。しかも、もし完全にあなたと私が重なってしまって、完全に「わかる」ようになってしまったら、もう書くことさえ成立しない。だから、不可解であることが、書くことが成立するために必要なのだ。

ここから言えることは何か。書き手は読者に「わかってもらえない」となげくのではなく、わからないからこそ(不可解であるからこそ)書くことが成立する。ここで「書き手」を専門家に、「読者」を一般市民に置き換えてみよう。「わかってもらえない」となげくのではなく、不可解だからこそ書いたり解説したりすることが成立するのだ。もちろん、ここから文学書における理解と自然科学における理解の差異と同型性についての興味深い考察がいくらでも生まれてくるのであるが、これについてはまた次回。

2011年10月31日号