連載エッセイVol.63 「文学における理解と自然科学における理解」 藤垣 裕子

2012-11-06

先回(バイブルVol.51、2011年10月25日号)の記述を受けて、文学書における理解と自然科学における理解の差異と同型性について考察することが本稿の目的である。文学における理解の1つのありかたは、理解=包含ということであり、作者=「私」と読者=「君」が重なって一体化すること、向き合っている対象の存在そのものを「内に取り込む」ことであった。あなたと私の境界が重なること、あなたが感じるように私が感じることができること。文学作品は多くはこの共感によって読まれる。そこにあるのは、知性とともに個人の感性を総動員してできる理解である。文学作品の読みは読者の数と同じだけ立ち現われてくる。

それに対し、自然科学における理解はこれと異なる。自然科学では、誰がいつ行っても同じ結果が得られる操作によって記述する没個人性が大事なのである。特に数値や定量的操作に信頼をおくことによって、個人に由来する深い知識が最小限にしか要請されないようにする。ここでは個人によって異なる感性は必要とされず、むしろ排除されるべき対象となる。自然科学の論文の読まれかたは、一意に定まらなければならない。

片や個人の感性が最大限強調され、片や個人の感性は排除される。2つの「わかる」の間にはこのような大きな差がある。文学研究は文学作品をインタープリテーション(解釈)する行為であり、個人の感性の全開が求められる。それに対し、科学技術インタープリターに要請されるのは、誰がいつ行っても同じ結果が得られる操作によって記述する没個人性のもつ美しさを伝えることだろうか。が、科学の面白さを伝えるというとき、個人の感性から全く自由とも言えない。

興味深いのは、自然科学系の人が「わかってもらえない」と嘆くとき、自分がこんなに美しい(あるいは面白い)と思っていることを他人はどうして理解しないのだろう、という考えが基底にあることである。「私がそれを美しいと感じるようにあなたもこれを美しいと感じる」というのは、第一段落の文学における共感と同型性をもつが、境界の重ね方の方向が異なる。没個人性の世界で個人の恣意性排除の世界にいる自然科学者たちは、感性が個人ごとに異なるということに時にあまりに無頓着で、ナイーブだったりもする。

2012年10月25日号