連載エッセイVol.95 「『失敗した』研究ってあるの?」 松田 恭幸

2015-06-24

東大素粒子物理国際研究センターが中心になって進めている研究プロジェクトの一つに MEG 実験がある。ミュー粒子という素粒子が光子を放出して電子に崩壊するという、今まで60年以上にわたって誰も見つけたことがない稀な崩壊過程を見つけようという実験である。MEG実験は2008年からデータの取得を開始し、約8兆個のミュー粒子の崩壊を観測したが、現在までにこの過程は見つかっていない。

知人と話しているときに、この研究は失敗なのか?と訊かれて絶句した。とんでもない!ある現象が起こらない(起こりにくい)ということを知ることは、ある現象が起こるということを知るのと同じぐらい科学の進展にとって重要である。このことを力説しようとして、はたと我が身を振り返った。本当に自分たち研究者はそのことを認識しているだろうか。

Fanelli による研究(*1)によれば、科学研究の全分野において、出版論文の中で「ある仮説を提示し、その仮説を実証するデータを得た」と主張する論文が占める割合は年々増加し続ける一方で、「ある仮説に基づいて研究を行ったが有意な結果は出なかった」「ある先行研究の結果は再現できなかった」という論文の割合は減り続けているという。

こうした傾向を生む要因の1つとして、「ある仮説を提示し、その仮説を実証するデータを得た」という論文の価値が、そうではない論文に比べて高いと考える “positive bias” が、出版社側にも研究者側にも存在していることが挙げられる。この傾向が強くなると、誰かがすでに行って失敗すると判明している研究を世界中で誰かがまた繰り返し、一方では、再現性が乏しい研究結果が反証されないままに一人歩きするということになりかねない。”positive bias” は、研究不正と同じく、科学の健全な進展(と社会の発展)の障害となり得るのだ。

エジソンは「私は失敗したことはない。うまく行かない 10,000 通りの方法を発見したのだ」と語ったと言われている。いわゆる「うまく行かなかった結果」を積極的に意義あるものとして認める姿勢が、研究者集団だけではなく、研究者を雇用する大学・研究所にも、また競争的資金を提供する側にも求められているように思われる。

(*1) D. Fanelli, Scientometrics 90, 891-904 (2012)

2015年6月24日号