連載エッセイVol.97 「科学的社会主義」 岡本 拓司

2015-09-02

「科学的社会主義」の語は、プルードンが『財産について』(1840年)の中で用いているが、自派の指針を指す語にこれを用いたのはエンゲルスで、特に『空想から科学へ』(1880年)の英訳(1892年)では表題にこれが使われた。独語ではwissenschaftlicher Sozialismusで「学問的」という具合だが、日本へは英訳を介して入り、「科学的社会主義」の語が定着した。ただし、エンゲルス自身、歴史学や経済学に基づく自派の展望を、自然科学の成果、特に進化論を意識して、法則性による裏付けを持つものと考えており、「科学的」でも不適切ではない。

社会主義は「科学的」なもののみが優勢だったわけではなく、国家社会主義(ヒトラーのものより前)や講壇社会主義(当初は蔑称であった)もあり、日本産の変わり種としては北輝次郎の純正社会主義(1906年)がある。北の場合は天皇(ただし機関説)の下での社会主義の実現を構想しており、一方で西洋の社会主義にはキリスト教と相性のよいものもあった。

科学的社会主義が強い影響力を持つようになるのは、これを標榜するグループがロシアで革命に成功してからのことである。彼らは、世界同時革命の構想に基づき、各地の賛同者を教育し、資金を与えて支部を作らせた。日本にも特に知識層を中心に影響は強く、米騒動や大恐慌の影響もあって、社会主義革命が歴史の必然であると信ずる者も多かった。

1927年にレーニンの『唯物論と経験批判論』が独語から重訳される頃には、モスクワの人々は科学や自然についても独自の主張を抱いており、それに反する場合は容赦なく批判が加えられることが、ブハーリンらによる福本和夫への譴責によって明確になった。このため、たとえば、弁証法というヘーゲル由来の発展法則は、歴史や社会のみならず、自然についても成り立つと言わなければならなかった。両者の弁証法の関係はどのようなものか、両者を記述する科学の関係はどのようなものかなど、この陣営やその周辺の人々の科学論の課題は、以後70年の間、やや窮屈な枠の中にはまってしまう傾向を持った。

ともあれ、科学について語るには、社会主義の沿革程度は弁えておく必要があるという次第である。

2015年8月25日号