連載エッセイVol.130 「価値と認識」 見上 公一

2018-06-01

つい先日、本学本郷キャンパスの地下食堂に飾られていた著名日本人画家の作品が改装にともなって処分された可能性があるというニュースを目にした。作品の価値が適切に認識されていなかったことがその理由として考えられるという。

この話を聞いてふと思い出したのは昔訪れた都内のあるバーのことである。もともと先代のマスターが趣味で始めたというそのバーの壁には、誰もが一度は名前を聞いたことのある著名な画家の作品が飾られていた。上品に飾られたお店の雰囲気に溶け込んではいるのだが、タバコの煙にふれて本来の色彩を失っているようにも見えた。マスターに「もっと大切にした方がいいんじゃないですか?」と聞いてみたところ、「この絵はこうやって楽しんでもらうのがいいんだよね」と先代が言っていたという。専門家の人が知ったら憤慨するのではないかとも思ったが、よく話を聞いてみると先代は芸術に通じた方で、自身も画家として絵を描いていたそうだ。

絵画に限らずモノの価値とは相対的なもの、つまり認識する側との関係の中に生じるものではないだろうか。他の人には何の価値もないモノであったとしても、ある人にとっては決して手放すことのできない貴重なものである場合もある。また、オークションで著名な画家の作品が驚くような価格で取引されたという話も時々耳にするが、それに見合うだけの価値を見出している人もおそらくごく僅かなのではないだろうか。その理由は様々であろう。個人的な思い入れがあるのかもしれないし、その画家の作品をコレクションとして収集しているのかもしれない。いずれにせよ、価値が「適切に」認識されると言った時に前提となるそのモノ本来の、あるいは絶対的な価値の存在には懐疑的にならざるを得ない。

もちろんこれは前述の作品が処分されても仕方がないということを主張するものでは決してない。一度処分されたモノは戻ってこない。そこに価値を見出している人がいるかもしれないということに気づいていれば、異なる対応がなされていたかもしれない。価値観を擦り合わせる必要はないが、異なる価値観が存在することを認めるだけでも違う結果が得られたのは今回の騒動に限ったことではないはずである。そして、そのような議論は「文系学部廃止論」や「学芸員はがん発言」のような科学技術インタープリターが扱う事柄にも当てはまるのではないだろうか。

2018年5月25日号