連載エッセイVol.157 「自らの偏りを自覚せよ」 内田 麻理香

2020-10-12

新型コロナウイルスについて、「専門家」や「有識者」が次々とメディアに登場し、しかも異なることを主張している。何を、誰を信じたら良いのだろうかと戸惑う。

新型コロナウイルスのような、未知のウイルスに対し、専門家の見解が異なるのは当然だ。そもそも、科学とは現時点でもっとも確からしい仮説を積み上げた知識体系である。より確実だと考えられる知見を積み重ねていくのが、最先端の科学の姿である。

また、新型コロナウイルス対策は、科学の観点のみで判断できない。経済へのダメージなども考慮する必要があるし、行動を自粛し続けていけば、暮らしの楽しみも損なわれる。そうなると、感染症以外の「専門家」たちが、各々の知見を披露して参戦することになり、百家争鳴の状態に陥る。

いまは、「コロナは騒ぐほどの病ではない」と考える経済重視派と、感染拡大の防止のために行動自粛を考える慎重派と、議論が二極化しつつあるように見える。後者からみると、前者を主張する者たちは、科学リテラシーが低いように思える。しかし、これはリテラシーの問題なのか。

米国の刑法学者、ダン・カハンは、地球温暖化など見解が二極化する議論についての、科学コミュニケーション研究をしている。彼の研究結果によれば、地球温暖化は人間活動の結果ではないと考える「地球温暖化懐疑論」を支持する者は、経済活動を重視する共和党支持者に多いという。彼らは、科学リテラシーが低いわけではなく、「科学的知識」が増えれば増えるほど、地球温暖化懐疑論を支持する傾向があるという。

情報量が多くなるほど、自らの見解を正しいと考える「フィルターバブル」現象は、科学に関わる場合でも起こる。例えば、私は自粛が苦にならないから、自粛を是とする「科学的知識」を集め、自分の信念を強めているかもしれない。仮に、私がいま大学1年生だと想像してみよう。キャンパスライフを楽しめない不満から、授業をオンラインで進める大学に対し、過剰にコロナ対策をしていると考えるかもしれない。そして、「コロナは騒ぐほどの病ではない」とみなす見解に一票を投じ、そのような情報を収集していくだろう。

誰しも、自らの信念や思い込みから自由になることはできない。大事なのはその自分の偏りを自覚することだ。巷にあふれる「エビデンス」も、それを説く者の背景を考えて見直す必要がある。そう考えると、今の分断した言論の状況に対し、少し冷静になれるのではないか。

『学内広報』no.1538(2020年9月24日号)より転載