2020年以来のコロナ禍において、私なりに思わぬ発見をさまざま体験してきた。その一つに記憶と時空をめぐるものがある。
コロナ襲来後の最初のセメスター(2020年春セメ)でのことである。授業はすべて初のオンライン方式となり、私が所属していた文学部では3週間の準備期間が置かれたが、PC関係が不得手な私には、緊急事態宣言下の生活と相俟って、かなり疲弊した末の開講となった。実際の授業による疲労もかなりの程度で、1ヶ月するとオンラインのことを考えただけで忌避感が生じるしまつであった。
そんな折、授業でものした余談や補足がどの授業での話か判らなくなることが起こった。当初は疲労困憊のせいかと思ったのだが、そうではないことがすぐに判った。すなわち、どの授業も同じ自室でPCモニターの画面だけを見つめて話しているため、授業ごとの空間的な違いがないのである。コロナ以前は、ことさら意識せずとも、大きさや構造などがそれぞれ異なる教室空間で、さらに学生たちの“顔”が教室ごとの彩りを与えた中で、私は授業を行い、授業内容の記憶はそうした空間とセットで形成されてきたのである。
同様の経験のある方は、少なからず存在するのではないだろうか。では、次はどうであろうか。
私は若い頃から週に何度かランニングを続けてきたが、走行中の記憶を確認したことはなかった。が、おそらく先の“発見体験”が契機となり、ある日ふと確認してみた。まず、その日のランニング全体ですれ違った人をただ思い出そうとしたところ、まったく思い出せない。そこで、どこどこの曲がり角や緩やかな上り坂など、場所ごとに想起すると、けっこう思い浮かぶのである。記憶が空間とセットになっている所以であろう。
ところが、である。ためしに、ランニングのスタート地点から走ったコース(住宅街や幹線道路の歩道)を脳裏で連続的に辿ってみると、驚いたことに、すれちがった人々が次々と浮かび上がるのである。回想の走りに従って、親子連れだとか、赤いキャップの女性ランナーだとか、記憶からは消えていたはずの人々が、“正確な場所”で立ち現れるのである。しかも、その多くは、私が近づくにつれて大きさを増し、鮮明になってくる。記憶とは、空間のみならず、時間(の流れ)とも関係しているものなのだろう。
読者の皆さんには以上のような経験はないだろうか。その後の私は、“発見体験”をもとに、哲学者ハイデガーの気になるところを読み返しながら、コミュニケーションと時空との関係を考えているしだいである。