連載エッセイVol.138 「ノアの方舟から考える」 深津 晋

2019-02-04

誰でも一度は耳にしたことがある創世記の物語。

大洪水がくることを知らされたノアは避難船を造る。人間を含む全ての動物とその食餌(=全生態系)を乗せ、選ばれし個体だけが難を逃れる。およそそんな筋書きだったと記憶している。

幼少の頃、まだ素直だった私はこの話を命の尊さや博愛を説く道徳モノとして受け止めていた。

時は流れ、いつしか公害など経済成長の影の部分が顕在化し始めると、地球規模の環境変動が関心を呼び、人類滅亡説が跋扈し始めた。なんでも「明るすぎる未来」の予測では、数10億年後には今の地球はないらしい。これはピンチである(何とか切り抜けてほしい)。

同じ頃、宇宙開発競争を背景に、今にして思えば荒唐無稽な構想が真剣に議論されていた。例えば、地球外移住を目的としたテラフォーミングである。ところがこれらを目の当たりにして私はふと思った。あれ?なんだか「ノアの方舟」に似てきたかもしれない。

ノアの方舟を人類の究極の生存戦略とする見方は、妄想であっても意味深長だ。この時代の人は地球がミカン型なんて知らないし、環境を劣化させるエゴは持ち合わせても人間が移住するには生活環境まるごと引っ越しが必要とのエコ(ロジー)の認識はない筈だ。であれば、少なくとも計画サイドは、とうの昔から「全て」を知っていたことになる。然らばその意味は?

次なる興味は、いかに動物達を誘導して乗船させるかである。議論の単純化のため人間の番は相当数を仮定し、ゆるキャラよろしく動物は擬人化して考える。当時の水準の科学リテラシーしかもたない“人々”を納得の上で船に乗せたい。しかも状況は待ったなしだ。

洪水と言えば、なんとか乗船はしてくれるだろう。しかし、片っ端から獰猛な肉食獣(絵本ではキリンや象だった)まで、ついには病原体まで同乗させるとなれば、抵抗されるに決まっている。形勢不利である。

ここはひとつ正攻法でエコロジーの概念をぶつけてみてはどうか。しかし、これは時代錯誤だし無理し過ぎだろう。むしろ「情けは人の為ならず」を曲解している人に誤解されたまま終わるのと同じで心許ない。ではどうする? そもそも感情論的な抵抗感だし、「みんな溺れたら可哀想」と、それこそ「情」に訴えるのはどうか。これなら一撃必殺の効果も期待大だ。

図らずもこれは人々の行動を促す上で科学的な説明が常に最適手段とは限らないことの例に他ならない。かくしてノアの方舟は、科学技術コミュニケーション、リスクコミュニケーションの文脈でも読み解けそうだ。

2019年1月25日号