連載エッセイVol.150 「大学(院)で身に付く『問いを立てる力』」 定松 淳

2020-03-03

先日、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の一校で教鞭を取っておられる教員の方とお話をする機会があった。理系大学院で博士号も取得されているその先生は、主に「課題研究」のご担当をされているとのことだった。受験に向けた「いかに試験で得点を取るか」という勉強を離れて、より本来的な“探究”を行うというその理念は素晴らしいものだ。SSHではより力を入れて推進されているのだろう。

実際、教員の期待以上に「課題研究」に面白さを見出して、その探究能力を伸ばしてくれる学生もいるという。一方で、「課題探究」に対して生徒たちのやる気を喚起するのはなかなか大変であるともおっしゃっていた。つまり、受験の得点に直結しない勉強に学生たちはエネルギーを割きたがらないというのだ。これは、日本の教育の潜在的機能として、学歴という(ある種の)能力による学生のランク付けを行っている側面が強いことを考えれば、容易に納得のいくことである。

そしてもうひとつ教えていただいたのは、高校生たちは「問い」を立てるのが非常に苦手、ということだ。SSHの先生方の間でもそのことは認識されており、ある学校では高校1年次に「与えられた言葉について問いを考える授業」を設けることすら行ったそうだ。そして1年の最後の方には「ドラえもん」などと、問題のなさそうなお題に対しても生徒たちは「問題」を考案できるようになってきたという。しかし、それにもかかわらず、2年次の「課題研究」では、やはり問いを立てるのはそれほどうまく行かなかった、とのこと。その先生は「自分が大学院でトレーニングされていたのは、意外と簡単に身に付く能力ではなかったと知りました」と笑っておられた。私もインタープリタープログラムで大学院生たちと付き合っていて感じるのは、理系の大学院生は非常によくトレーニングされているということだ(これは文系大学院で身に付く能力は本人の思考過程により密着した文章作成能力であり、身に着けるのがより難しい、ということでもある)。

しかし昨今の大学改革で求められているのは何より「コミュニケーション能力」や「問題解決力」であり、この種の「問いを立てる力」ではないことは非常に残念である。ただ、このような認識が得られること自体は、教育改革の成果のひとつでもあるはずだ。大学であれ高校であれ、今さまざまに行われている教育改革が、少しずつでもそのように意義ある認識の積み重ねにつながっていくことを願わずにはおられない。

『学内広報』No.1531(2020年2月25日号)9頁より転載