連載エッセイVol.176 「コロナ禍における科学と政治」 小松 美彦

2022-04-23

コロナ禍に見舞われたこの2年間を顧みれば、日本の関連施策は「人命か/経済か」を基準になされてきたといえよう。また、政府と専門家会議との対立もその基準をめぐっていたと見受けられよう。たとえば、最初の緊急事態宣言(2020年4月7日)にあって、政府は経済活動再開の観点から解除を急いだが、専門家会議は感染拡大防止の点からそれに抗した。しかも、同会議は、政府の諮問への答申や科学的助言にとどまらず、広く独自の政策的発信を行ったが、これも感染爆発への危機感に由来すると報じられた。

その後(20年6月24日)、専門家会議はそうした姿勢を「前のめり」と自省し、改善策を示して世に問うた。そこで科学論分野でも、専門家の権限や当為の検討などを通じて、政府と専門家会議の在り方が論じられてきた。だが、かような実践的な議論とともに、原理的な考察も必要であろう。すなわち、「政治と科学との関係そのもの」についての考察である。

この点に関しては、フランスの哲学者A.コント=スポンヴィルの卓見をまず参照するのがよい。紙幅の制約のため単純化すると、世の中は基盤から順に、「科学技術・経済」、「政治・法」、「道徳・倫理」の各層からなっており、政治・法が科学技術・経済の暴走を、道徳・倫理が政治・法の専制を、それぞれ制御する関係をなしている。ただし、いずれの階層も固有の領分をもっているため、ある階層の問題を他の階層に担わせることも、従わせることもできない。たとえば、科学理論の真偽を国会が多数決で決めることは暴挙であろう。コント=スポンヴィルは、このような領分の混同・転化を「純粋主義」と呼んで戒めている。

ところが、コロナ禍においては、純粋主義が公然となされている。科学的提言の評価が、少なくともその軽重の判断が、政治によって行われており、しかも、そこでは科学と経済とが比較考量されているのである。今その是非は問わないが、それが現実にほかならない。さらには、ここでいう科学とは、いわば真理の探究と提示のためのものであり、かの哲学者がそれと一括した生産力の発展手段としてのものではない。近年では等閑視されがちな両科学の異同も、再検討が必要なのである。

翻ってみれば、そもそも科学による感染症拡大防止とは、人命(個々人の命)を真の目的としているのだろうか。もしそうではないのなら、「人命/経済」であるかに見えた政治(政府)と科学(専門家会議)との真の対立軸は、はたして何であろうか。

『学内広報』no.1557(2022年4月22日号)より転載