連載エッセイVol.199 「小津映画から顧みる」 小松美彦

2024-03-25

世界の巨匠、小津安二郎監督の名作のひとつに《彼岸花》(1958年)がある。結婚をめぐる父娘の確執と情愛を主軸にしたものである(小津初のカラー作品)。

父(佐分利信)は長女節子(有馬稲子)の嫁ぎ先をなかば決めており、母(田中絹代)もその意に従っている。そんなある日、父の前に見知らぬ青年(佐田啓二)が現れ、節子との結婚の許しを請うたのであった。かくて、父娘の関係は一挙に険悪になる。「私、自分で自分の幸せを探しちゃいけないんでしょうか」と娘。父は父で、「おまえがみすみす不幸になるの、黙って見ちゃいられないんだ」と寂声を返す。

最終的に父は娘の自由な結婚を割り切れないながらも受け容れるのだが、映画の前半には全体の伏線をなし、社会的にも物議をかもしたシーンがある。家族旅行で訪れた芦ノ湖の畔で、田中絹代が佐分利信に“防空壕の幸せ”を語る場面である。

「あたしねぇ、時々そう思うんだけど、戦争中敵の飛行機が来ると、よくみんなで急いで防空壕に駆け込んだわね。節子はまだ小学校に入ったばっかりだし、久子はやっと歩けるくらいで、親子4人真っ暗な中で死ねばこのまま一緒だと思ったことあったじゃないの。戦争は嫌だったけど、時々あの時のことがふと懐かしくなることあるの。〔…〕あんなに親子4人がひとつになれたことなかったもの」。

さて、科学コミュニケーションにあって、通常は「伝達する」を意味する英語の“communicate”の原義は、「分かち合う」「共にする」である。しかも、「伝達」の語意に派生した後も、その対象は情報や思想から聖体(拝領)へと広がっている。つまり、聖体(パンと葡萄酒)が伝達されることで、人はイエスと霊肉を分かち合い、共にし、そしてイエスとひとつになってきたのである。

しかし、《彼岸花》が描いたように、「共に」と「自由」は根本的に相容れないのだろうか。幸せな「共に」は、「自由」を奪われた防空壕の逆説の中にしか存在しないのだろうか。小津との接点など皆無に思えるマルクスは、実は小津と同様のことを述べている。

「自由という人権は、人間と人間との結合にもとづくものではなく、むしろ人間と人間との分離にもとづいている。それは、このような分離の権利であり、局限された個人の権利、自己に局限された個人の権利である」(「ユダヤ人問題に寄せて」)。

では、あらためて顧みるなら、科学コミュニケーションは、コミュニケーションにまつわる以上の問題をいかに考え、何処いずこに向かおうとしているのであろうか。

『学内広報』no.1580(2024年3月25日号)より転載