Re:Logergist(2021) エッセイ「炒められる自我」

2023-11-14
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「Re:Logergist」とは

グループでの討論を経て科学(学術)エッセイを書く企画です。日常を描写する科学エッセイを書き続けた物理学者の集団、「ロゲルギスト」の再現・再解釈を目指します。

科学(学術)エッセイ執筆を学ぶ授業として、Sセメスター『科学技術表現論Ⅱ』(担当教員:内田麻理香 特任准教授)を開講しています。

Re:Logergist(2021) エッセイ「炒められる自我」

放談「チャーハンについて」を踏まえて、YSさんがエッセイを執筆しました。

執筆者:YS(文学部社会心理学専修 4年)

このほど、「家庭でも簡単に作れるパラパラチャーハンの作り方」なるものを耳にした。正確に言えば教えてもらったのだが、とにかくその情報とこの情報を知った自分自身の精神によって、この自分自身の肉体がキッチンに引きずり出されるのに30分かからなかったのは間違いない。まず、予備知識として読者諸君に知っておいていただきたいのは、自分とチャーハンの長年に渡る因縁だ。日本国で生まれ育った他の一般的な男性と同様、自分もかつて中華料理店でチャーハンよりはむしろラーメン定食、あるいは餃子定食を頼むような少年時代を送っていた。しかし皆さんご存知の通り、気づいた時にはチャーハンは我々の背後に忍び寄っているもの。ほとんどの場合、中華の定食には半チャーハンがついているものであり、知らず知らずのうちにチャーハンは自我の原風景に侵食していった。とはいえ、他のメイン料理のおまけ的立ち位置に過ぎなかったチャーハンが一躍スターダムに上り詰めたのは、もっと後、高校3年の夏――受験シーズンであった。

先の見えない受験勉強と確約されない成功に鬱屈した日常を送っていたある日、何の気なしにテレビをつけると、お笑い芸人が下積み生活中に磨いた料理の腕を振るう番組が放送されていた。その中で一際異彩を放っていた料理が、他ならぬチャーハンであった。安価でシンプルな具材ゆえに作り手の力量が試されるこの料理はどこか受験に似ている、そう感じたかはさておき、翌日以降の昼食はおおむねチャーハンになった。もしかすると、先の見えない受験勉強より、目に見えて結果の出る料理に現実逃避したかったのかもしれない。1年目の受験に失敗してもなお、チャーハンへの情熱は消えなかった。何軒もの中華料理屋に通い、試行錯誤をした末にようやく納得のいくものが作れるようになったころ、自分は大学生になっていた。

大学生になると、料理をする機会は激減した。キャンパスの食堂や近隣の飲食店で昼食をする機会が増えたこともあったが、なにより既に受験時代のチャーハン作りで料理は極めた感があった。部活と課題で多忙な日々を送る間に、気づけば丸2年キッチンから離れていた。コロナ禍に入り、自宅にいる時間が増えたことで再び料理をするようになったのはごく自然なことかもしれない。しかし、2年の間に感覚は既に鈍っていた。一度得たものを失うのは、もともと持っていないよりも苦痛をともなう。そんなことから、ここ1年ほどチャーハンに背を向けていた。

ここで話は冒頭に戻る。覚えているだろうか、そう「家庭でも簡単に作れるパラパラチャーハンの作り方」だ。暗い袋小路に立っていた自分にとってこれは一条の光でもあり、同時に今までの努力を否定しかねない劇物でもあった。不思議な緊張感が全身に走る。案の定、当のレシピは自分の経験則と食い違っていた。火力こそがチャーハンをチャーハンたらしめると考えていた自分にとって、「弱火で卵と米を混ぜるように炒める」という文字列はまさしく悪魔の囁き、禁書の句そのものであった。何かに操られたかのように弱火でヘラを操る間、米は少しずつ結合を弱めていく。ヘラのふちからこぼれる米の如く、脳内で何か大切なものがぽろぽろと剥がれていくのが感じられた。アイデンティティーだ。人間は生きるにあたって第一に自らに言い訳を立てなければならない生き物だ。自分は何者か、これを巡る争いはまさしく生存を賭けた聖戦、この戦いのためならば、与謝野晶子だって君死にたまへと言うだろう。その戦いに、今まさに自分は負けようとしていた。自分が培ってきた信念が他人のミームによって崩される。かくして、混沌を思わせる数分の後、自我はパラパラになっていた。もちろん、チャーハンも。

【妹評】パラパラしすぎて食いずらい。65点。