「科学的思考法を愛でる」 『図書』2022年10月号 内田麻理香

2023-03-31

科学技術コミュニケーション部門の特任准教授・内田 麻理香 先生のエッセイを掲載します。岩波書店『図書』2022年10月号の転載となります。

科学的思考法を愛でる

昨年度から、東京大学の駒場キャンパスで科学エッセイを書く授業を担当している。この授業は、日常を描写する科学エッセイを書き続けた物理学者の集団、「ロゲルギスト」にならい、集団での議論ならぬ「放談」を経て科学(学術)エッセイを学生に執筆してもらい、その執筆の能力を高めることを目的としている。かつて、立花隆が駒場キャンパスで「調べて書く」ゼミを開いていたが、こちらの授業は「放談して書く」である。

ロゲルギストは、1951年から1983年頃まで活動した物理学者の同人会である。計七名の物理学者が集まり、様々な日常現象をテーマに科学的視点から放談するための会合を定期的に開いていた。彼らはその結果をエッセイとしてまとめ、雑誌『自然』に連載した。もともとロゲルギストのメンバーは、ノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』を、自分たちなりに再解釈をして体系化するために研究会を開くつもりだったが、その会はいつの間にか気になるテーマについて語り合う飲み会となったという。ロゲルギストは、「服は交互に着た方が良いか否か」や「かき餅の穴の形」など、取るに足らないテーマについて、大まじめに物理学的考察を加え、それをエッセイにして発表した。私の授業は、21世紀にこのロゲルギストを再現することを目指している。先日の授業は、キモとなる放談の回であった。もちろん、エッセイ執筆はひとりで考え、ひとりで書くことができる作業だ。しかし、ロゲルギストの残した成果を鑑みると、彼らが「ロゲルギスト」としての活動を30年もの間続けることができたのは、他者との語らいあってこそ、だと考える。ひとりでも書けるエッセイだが「みんな」で考えたテーマのほうが、より面白い作品が出せるはずだ。

この日の放談のために学生が選んだのは、「食器を洗う際、洗剤の泡をつけたあとの食器をシンクにいったん置くことがあるが、この食器は清潔か否か」というテーマである。なるほど、考えたこともなかったが興味深いテーマである。洗剤の泡がついて洗ったはずの食器を、汚れた(もしくは汚れている可能性が高い)シンクの上に置いてしまったら、せっかく洗ったはずの食器を、再び汚染することになるのではないか。正直、気にならなければ生活に支障もないし、これについて論じたとしても、わかりやすい益が得られないテーマである。このようなテーマこそ、優秀な学生が放談し、才能の無駄遣いをするにふさわしい。この「洗剤のついた食器をシンクに置く問題」について、学生たちに放談してもらった。30分ほどの放談であったが、「食器を洗う各家庭のスタイル」「そもそも、洗浄の際に泡は役に立っているのか」「十分に洗浄されたと判断する基準は何か」など、さまざまな論点が提示された。

この放談の結果を踏まえて、受講生たちは科学(学術)エッセイを執筆した。この授業は、いわゆる文系/理系を問わず、さまざまな分野を専攻する学生が集まっている。同じテーマでエッセイを書いてもらうのだが、各々が自分の得意分野に引きつけていたり、個々人の趣味趣向も反映されたりするため、多様性に富んだ作品群が生まれた。しかも、エッセイとしての質が高い。開講初年度である昨年も薄々感じていたが、この授業は「駒場らしさ」を体現した名講義なのでは……? と悦に入っていた。もちろん、立派なのは受講生たちで、私自身は単に場を提供しているだけなのはわかっているのだが。そんな自己満足に浸っていたその時、学生から「先生が書いたエッセイも読みたいです」という「突き上げ」、いや正当な要望があった。確かに教員の私が、学生だけに負荷をかけて「面白い、面白い」と楽しんでいるだけでは不公平であろう。そこで、重い腰を上げて、以下の文章を記した次第である。


泡といえば洗剤、洗剤といえば泡。洗剤は泡のイメージと切り離せないが、じつはこの泡と洗浄作用は、基本的に関係はないらしい。しかし、泡は肌や髪への刺激の低下や、洗浄時の使用感を演出するツールとしての役割を果たしているという。 洗剤や化粧品などの日用品メーカーである「花王」は、商品開発に至る基礎研究の成果をウェブサイトに公開している。「泡ってふしぎ」と題された動画 (最終閲覧日:2023年4月14日)では、泡の三つの機能「ふわっと気持ちいい」「その場にとどまる」「つけたこと、消えたことがよくわかる」が紹介されている。いずれも使用感と関係すると思われるが、このうち泡の「その場にとどまる」機能について考えてみたい。

ここまで、洗剤と書き続けてきたが、洗剤の主成分は界面活性剤である。界面活性剤により発生する泡のしくみをおさらいしよう。

泡は、液体と気体が混ざり合ったエマルジョンである。界面活性剤の作用のひとつに、表面張力を低下させる働きがある。物質は「表面になりたくない」「他の物質と接したくない」という性質をもち、これが表面張力と呼ばれる。表面張力があるため、水と油は混ぜたとしても、時間がたてば二層に分離して落ち着くし、葉の上にある水滴は、固体である葉を避けるかのように球状になるのだ。液体と気体は通常では混ざりにくいた め、ただの水を泡立て器で泡立てたとしても、できた泡はたちまち消えてしまう。しかし、界面活性剤が含まれた液体は表面張力が低下するので、液体と空気が混ざりやすくなって泡を形成するのだ。界面活性剤は、水と結合しやすい「親水基」と、油と結合しやすい「親油基」の両方を持っており、水と油を取りもつ「仲人役」を果たしてくれる。この界面活性剤によって、水とも油とも親和性の大きいコロイド粒子(ミセル)が作ら れるため、その泡は安定する。先に「洗剤は泡のイメージと切り離せない」と書いたが、これが理由となる。

さて、少し手の込んだ料理を提供するレストランで、泡状になったソースをかけた一皿を味わった方はいるだろうか。これが、泡の「その場にとどまる」機能を活かした料理である。普通のソースよりも、泡状のソースの方が食材の上にとどまってくれて食べやすい。そして、見た目にも楽しい。これは、「エスプーマ」という比較的新しい料理の技法を用いて作られていると予想される。エスプーマは、独創的な料理で世界を魅了し、映画化もされたスペインのレストラン、「エル・ブリ」で開発された調理法だ。亜酸化窒素や二酸化炭素などの気体を充填したボトルに食材を入れ、ノズルで噴出することによって泡状のソースが生まれるというしくみである。ちなみに、この泡を安定化させるために、ゼラチンや卵白なども材料として必要とする。10年前くらいは、いわゆる高級レストランでしかお目にかからなかった調理法だが、最近はよりカジュアルなお店でも提供されるようになった印象がある。

分子ガストロノミーは、料理のプロセスを科学的に解明し、科学を利用して新たな料理を創作することを目指してきた分野である。料理人たちが科学を活用した、この分子ガストロノミーは、科学と料理という異分野の融合であり、二つの分野が混ざり合ったエマルジョンと呼ぶこともできる。この場合、科学と料理を結びつける界面活性剤の役割を果たしたのが、料理人たちの「美味しい、新しい料理を作りたい」という貪欲な想いであったと言えよう

料理以外の分野でも、科学との新しいエマルジョンを作ることはできるのだろうか。そしてその場合はどのような「界面活性剤」が必要になるのだろうか。


さて、上の拙文が教員としてのお手本になっているか否かは極めて怪しいが、これを書く際に意識した点がひとつある。私は、自分がエッセイを書く際に「自分語り」の割合が多い傾向があると自覚している。先の文章では、自らにその自分語りを禁じてみた。

丸谷才一は、エッセイを「あらゆる定義に挑戦するもの」と語る(聞き手  湯川豊『文学のレッスン』所収「【エッセイ】定義に挑戦するもの」新潮社、2010年)。あまりに多様な書き方があって、定義できない文学ジャンルであるというのだ。論文にどの程度「個人的な心情」を含めたものがエッセイに該当するのか、その境界は明確には定められないだろう。さらに、論文を「エッセイ」と呼ぶ学問分野もある。おそらく、どんな種の文章も当てはまりうるカテゴリーであろう。「私のこの文章はエッセイです」と主張すれば、それはエッセイなのだと認められる文学ジャンルだと思う。

このような文学ジャンルであるエッセイにおいて、自分の「個性」や「芸」と呼ばれる何かを表現するためには、どうしたら良いか。真っ先に思いつくのが、自分語りである。個々人の体験や心情はその人独自のものなので、これらを文章に含めることでオリジナリティを発揮しやすくなる。また、書き手の体験や心情を交えた文章は、読み手の共感を喚起しやすい。科学報道の文章や、解説的な科学ライティングの文章より、科学エッセイの方が親しみを感じやすいだろう。科学エッセイが、ほかの科学ライティングよりも多くの読者に届くと期待しているからこそ、私は科学エッセイの書き手を増やしたいという想いでこの授業を開講しているのである。

一方で、自分語りはエッセイにおいて万能ではない。自分語りは自分と周囲の人の体験や心情を消費する。自分の切り売りは、早々に「ネタ」切れを招くし、ネタのために自分を蝕むようになるのであれば、もう文章は書かない方が良い。日本の私小説、モデル小説におけるプライバシー侵害がたびたび問題になるが、他者をネタにすることの害は、小説だけでなくエッセイもまた同じだろう。どんな文章も他人を害する可能性をはらむ。なるべく他者にとって無害な文章にするために、書き手の科学的(学術的)視点の 要素が役に立つのでは、と考える。

再び丸谷才一に登場してもらうが、「社交性とか閑談性とか、そういうことがエッセイの非常に大事なところなんでしょうね。閑談が変なふうになると、無内容になったり下等になったりするんで、そこにエッセイストの芸というか、たしなみというか、そういうものが求められるんですが」と論じている(前掲書)。

ここでいう「芸」や「たしなみ」は、おそらく書き手の学術的要素によって、一定程度は担えるのではないだろうか。学術的要素は、もちろん学術的な知識も含むが、それだけにとどまらない。文章に、その学問分野ならではの思考のプロセスが含まれることも、書き手の芸や品性や個性を表現できると思うのだ。例えば「正しく恐れる」という表現の引用元として有名な、寺田寅彦の「小爆発二件」というエッセイは、そのメッセージの鋭さもさることながら、浅間山の噴火を緻密に観察する寺田の科学的思考の過程をたどることができるのも、魅力である。科学的思考は、常識的な思考と異なる点が多いが(だからこそ、科学的思考で導き出された結果は、特別な知として使われる)、どんな学問分野にも特徴があり、ユニークな思考法をもつはずである。

科学的知識を伝えて受け手の科学リテラシーを高めることは、科学コミュニケーションにおける一丁目一番地になるだろう(もちろん異論もあるだろう)。ところがこれが困難で、20世紀からあの手この手で世界中が試みているにもかかわらず、決定打が見つからない。そこで、科学的知識だけでなく、科学的思考法の奇妙さを面白がってもらうための科学エッセイの普及という変化球に挑戦しているわけだが、これは果たしてどの程度うまくいくのだろうか。

本稿で紹介した授業はまだ二年目であるが、今後も高めの野望を抱いて挑戦していきたい。