「メディアにおける科学報道の現状と課題」田中幹人先生

2022-11-29

プログラムの必修授業「科学技術コミュニケーション基礎論I」は、科学技術コミュニケーションの基礎についてプログラム担当教員のほか、さまざまな立場から第一線で科学技術コミュニケーション研究・活動に携わっている先生方をお呼びして講義をしていただく、オムニバス授業となっています。

8回目は早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース教授の田中幹人先生にお越しいただき、メディアにおける科学報道の現状と課題をお話ししていただきました。特に後半では現在流行中のCOVID-19をめぐる科学ジャーナリズムについて、行政へのアドバイザー経験をはじめとしたご自身の経験を交えながら、より具体的な事例についてお話ししていただきました。

科学ジャーナリズムとは

科学報道とはそもそも何なのでしょうか?一口に説明するのは難しいですが、主に「科学レポーティング」と「科学ジャーナリズム」の二つに田中先生は分類しました。前者は科学者が生み出した科学の情報を伝えることを目的とする行為であるのに対し、後者は市民のために科学に関する議論を”唱道”する行為を指します。単なる情報伝達にとどまらないジャーナリズムとしての”唱道”の重要性は、世界科学ジャーナリスト会議などでしばしば議論されていることです。これは科学報道がレポーティングに徹した結果、原爆の放射線被害を歪曲させてしまった歴史的反省や、公害などの科学的発展のマイナス面が露見し始めたことに対処できなかった歴史に由来します。

科学ジャーナリズムの現実

有事の科学ジャーナリズムには科学的に正確で多様な情報が、適切なタイミングで効果的に流通し、アクセスできるようになっていることが求められます。しかし、実際にはなかなかそうはいきません。例えば、デスクや編成部などの出版・新聞社内のゲートキーピングによって世間の関心、わかりやすさや、時には過激さなどのニュースバリューが優先されることがあります。これら人々の興味に迎合することはメディアの利益につながりやすいため、正確性や多様性、中立性といった理想の実現は難しいのです。他にも、政治・社会からの圧力、多様な情報から適切な情報を取捨選択の難しさ、現時点でのエビデンスが不足している状況における専門家の判断の難しさなどがあります。上述の「科学的に正確で多様な情報が、適切なタイミングで効果的に流通し、アクセスできるようになっている」状態を叶えることは、容易ではないようです。

日本の科学報道

以上を踏まえた上で、日本の科学ジャーナリズムの現状は、海外と比較してどのような状況にあるのでしょうか。

日本の科学ジャーナリズムはメディア分析をする限り、正確性の面においては相対的にレベルが高いと田中先生は質疑応答の過程でおっしゃっていました。海外に比べて日本の科学ジャーナリズムは個人プレーではなく組織的であること、科学ジャーナリストの数が単純に多いことなどを理由に挙げられていました。しかし、現状の日本の科学報道は未だ科学レポーティングとしての要素が根強いようです。それが一概に悪いとは言えませんが、このままではリスクコミュニケーションやクライシスコミュニケーションなどの有事に求められる報道のあり方としては不十分になることが懸念されます。

SNSの分極

近年、科学者と聴衆、そしてメディアを繋げる要素として欠かせないのがSNSです。意見や情報の分極化が近年顕在化してきていることが、最新の研究データからも読み取れます。この分極により互いが互いを嘲笑する構造が、さらに分断を生む様子も確認されています。しかし、この分断がSNSの誕生によって発生したのか、はたまた既にあった分断がSNSによって可視化されたに過ぎないのかについては未だ判然としないままです。また、この分断は検索選別機能であるフィルターバブルが関与していることが示唆されていますが、一方でこのフィルターバブルがあるからこそが分極化を食い止められている可能性も、研究では示唆されています。やはりこちらも一筋縄ではいかないようです。

COVID-19との戦い:リスクコミュニケーション(以下、RCと略記)

ここからはより具体的な事例を見ていきましょう。新型インフルエンザや3.11などの反省を踏まえた上での日本社会のRCは、RCを行っていることへの自覚やメディアのアクセス可能性への留意、(部分的とはいえ)広範なヒアリングや多様なステークホルダーとの対話の実践を行えたなどの点については成功したと見ていいでしょう。

一方で再確認されたRCの難しさも多々見受けられます。例えば、不確実性との付き合い方です。有事には迅速に対応する必要性がありますが、そこでエビデンスに基づいた施策を即座に取ることは困難です。例えば「三密」は、現在にいたるまで有効な感染対策の標語となりましたが、科学的に十分なエビデンスが集まってきたと言えるのはやっと最近になってからです。平時のRCや、食品安全基準など、すでに法的・政治的にも制度化されているリスクでは確実に定まったエビデンスに基づくのが正しいのは当然ですが、有事の際にどのようなリスクの評価・管理そしてコミュニケーションを行っていくかは、日本の大きな文化的課題です。

また、RCというものが実際には「リスク評価とリスク管理をすり合わせ、より良い社会を目指す取り組み」であるにも関わらず、行政各所やメディアそして市民からも、リスク情報の広報手段と誤解されることも多かったそうです。あるいは、すり合わせ行為の重要性を理解してもらえないままに情報が錯綜し、社会的混乱を招いた事態も見受けられたようです。

さらには科学者の立ち振る舞いも懸念事項です。今回のCOVID-19下では、政府のスピード感では間に合わないと感じた専門家たちが、自ら記者会見を開き提言を行うなどの様子が多く見られました。これは「専門家自身もジャーナリズムの一端を担う」という事態の表出の一つですが、これによって専門家への問題解決への過度な期待や、専門家の政治性に対する疑義が呈されるなどの反応もありました。日本社会で専門知をどう扱っていくのか、という大きな観点から考えていく必要がありそうです。

その他、SNS上での感情論や陰謀論、行動制限の心理依存性など、検討すべき事案はたくさんあります。

まとめ・私の感想:既存の科学者像の功罪

以上のように、COVID-19をはじめとした今の科学ジャーナリズムはメディアや聴衆、科学者などそれぞれの利害関係や時代変化が交錯し、決して一枚岩ではないことがよくわかります。私自身、出版志望の身としてこの手の話は漠然と理解していましたが、専門家の口から改めてお話を伺ったことで、ことの重大さや複雑さをより一層実感しました。

特に印象に残ったのが科学者たちの振る舞いに対する受け手の反応です。上述のような極端な反応を集めてしまった背景には科学者を、「社会から隔絶された技能を発揮する存在」あるいは「知的な権威を示す存在」という科学者像に過度に当てはめてしまったことが原因なのではないか、というように感じています。科学者が科学に関する問題解決をすることも、科学者の政治的独立性も、実際のごく一部の科学者の、ごく一部の行動を過大に受け止めているに過ぎないと感じます。科学にまつわる社会問題は現時点で現れているもので終わりというわけではありません。現状に対処するために、そして、来るべき社会問題に備え、まずはそのような科学者像を修正することが求められるのではないか、と感じました。

鈴木 広大(総合文化研究科 広域科学専攻 修士1年/18期生)