大学に入って2、3年たったころ、ある集まりで新約聖書のヨハネ伝を原語で読むことになった。実際に始まるとすぐに後悔した。古典ギリシア語をかじったことがあったのは、13歳年上の先輩と、1年だけ第三外国語で学んだ自分だけで、月に1回あった集まりは、私が苦労して作った解釈をその先輩が吟味するというものになってしまったからである。新約のギリシア語はプラトンやアリストテレスに比べれば易しいといわれるが、ほんの一文の理解に1時間くらいかかることもまれではなかった。
しかし、窮ずれば通ずで、あるとき、図書館の参考図書の一隅に重宝な本があることに気づいた。何冊もの英語の厚い本からなる全集で、開くと三段に分かれている。一番上が聖書の訳、二段目が文献学的な解釈、三段目には記述の背景や意図の解説が書かれていた。もちろんヨハネ伝の巻もある。至れり尽くせりの解説付きで、語学上の疑問はまず間違いなくこれで解消できた。さらに、ギリシア語の文体が1章18節までとそれ以降とで大きく異なることと内容との関連の説明があったり、話のつじつまが合わないところが編纂上の問題として指摘されていたり、一文に対して三つの解釈が可能であることを示しながらギリシア語の用例とユダヤ世界での語法についての条件で意味を確定する箇所があったりで、学問の蓄積のカの前に、腰を抜かすような思いをした。
先輩は訳読の様子が変わったのに気づき、何を参照しているのかと尋ねてきた。The Interpreter’s Bibleですと答えると、説教者の聖書かという。説教者ではなくて翻訳者ではないのかと思ったが、ではなぜtranslatorといわないのだろうとも考えた。
「科学技術インタープリター」という言葉を聞いて思い浮かべたのが、あの膨大な聖書の注釈書であった。信仰の書としての聖書への敬意と、歴史的文書としての聖書に対する冷徹な分析は両立し、質の高い学問的成果を生み出してインタープリターの活動を支えている。科学技術という対象について同様の成果を生み出すことが、迂遠なようであっても、科学技術インタープリターの活動を支えるためには不可欠なのではないかと思う。
2007年5月16日号