連載エッセイVol.80 「譲り合いの精神と科学技術コミュニケーション」 大島 まり

2014-03-25

ソチオリンピックが2月に開催された。スポーツの祭典ともいわれているオリンピックを通して、皆、それぞれ感じることがあったのではないかと思う。

4年に1度というオリンピックの場で、選手は厳しいトレーニングや試合を経て世界の頂点を目指して競い合う。勝負は費やした時間を超えて、あっという間に終わってしまう。選手にとって、満足のいく結果が出る場合もあれば、残念ながらそうでない場合もあるであろう。競技を終え、万感の思いで結果を待つ。その緊張感は言葉で表すことのできないものがあると思う。そして、これらの一連の出来事を見て、私たちは時には感動して涙する。

オリンピックで感じる感動はなんなのだろうか。私自身、熱しやすい性格ということもあるのだが、いつも不思議に思う。一瞬のなかに、凝縮したドラマを見るからなのだろうか。そして、このような感動を科学や技術は与えることができるのだろうか。

以前、「飛行機はなぜ飛ぶのか」というテーマで、研究室で制作したポータブル風洞を用いて高校で出張授業を行ったことがあった。準備段階ではうまくいっていたのだが、いざ本番という段階で、うんともすんとも言わなくなってしまった。私も、アシスタントの学生も慌ててしまい、必死になって直して、やっと動くようになった。そのハプニングのせいか、授業の出来はいま一つぱっとしなかった。ただ、その後、アンケートを見て、驚いた。「先生たちが必死になって実験装置を直している姿を見て、感動しました」というコメントが幾つかあったのである。意外なところが見られているのだなとびっくりしたとともに、少しうれしくもあった。

科学や技術というと無機的で面白みがないという印象が強いようである。でも、真理を追究する、あるいは製品として開発するのは「ひと」。長年にわたって失敗や試行錯誤を繰り返して、創り出すプロセスは目に見えぬ努力の賜物。その舞台裏を垣間見たとき、人は何かを感じるのではないだろうか。

オリンピックでの感動には及ばないが、科学や技術を通して与えることのできる感動もあるかもしれない。

2014年3月25日号