連載エッセイVol.81 「STAP細胞騒動から考える」 佐倉 統

2014-04-23

理研の発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子ユニットリーダーが『ネイチャー』に発表したSTAP細胞。画期的な発見と大騒ぎだったのが、論文に多数の捏造や剽窃が見つかって、一転、別の意味で大騒ぎになっている。

ここでは、論文の体裁と科学的成果の関係について確認しておきたい。重要な問題であるにもかかわらず、あまり取り上げられてはいないように思うからだ。

小保方論文の剽窃や捏造に対して、「大事なのはSTAP細胞が存在するかどうかで、論文の書き方などどうでもいい些末なことだ」と擁護する意見が、インターネット上などで散見される。論文の一部をコピペしても、実験結果が正しければそれで良いのだという論調である。あるいは、博士論文などにはある程度のコピペはあって良いと言う、とんでもない発言まで見られる。

このような意見は、根本的に間違っている。STAP細胞が実在するかどうかは、その実験結果の記述によって表現される。「論文の書き方」が悪ければ本当にそのような現象があったのかどうかも判断できないし、その研究の科学的意義も読み手に伝わらない。論文の書き方というのは、科学的な成果が体現されているものなのだ。だからこそ、大学院の修士論文や博士論文で、論文の書き方をきちんと訓練するのである。この博士論文などにコピペもやむなしというのは、なんのために博士論文という訓練があるのか、その目的と意義をまったく履き違えた、見当違いの意見である。

にもかかわらず、「科学的成果=重要な中身」、「論文の書き方=些末な形式」という見方が後を絶たないのはなぜなのだろうか?

大型の研究開発プロジェクトの中に、倫理的問題や社会的問題を担当するチームが置かれることが、最近では珍しくなくなってきた。科学技術インタープリターのキャリアパスが増えるという意味ではありがたいことだが、ぼくの経験からすると、研究開発のための支援業務のような扱いを受けることが多いのである。科学的成果こそが重要で、論文の書き方や社会的問題は付随的な案件であると考える精神構造と、根っこは共通しているのではないかと思う。

2014年4月23日号