連載エッセイVol.86 「科学のお作法」 石浦 章一

2014-10-15

インチキ論文と認定された人が堂々と自説を展開する時代になったかと少々悲しい気もするが、インチキ論文と分っていながら論文を発表した人を擁護する人もいるとは、驚くべきことである。私はたまたま小中高大の理科教科書、特に生物・生命科学、を編集する機会があるので、どのあたりから科学のお作法を採り入れているかをご紹介したい。

実は、小学校理科の教科書から、「大きい」ひまわりというのは、どういうことか、その定義をはっきりさせないと議論が進まないとか、実験には必ず対照を取らないといけないとか、実験は何度も行って平均値をとる、などの記述が新しく取り入れられている。実験しないで自分で適当な値を入れるとか、他人のデータを盗み見して書き込むなどのことをするなとは書いてないが、これらは科学者として当然のことと先生も教えているはずである。最近の小学校理科の教科書には発表スキルのことも書いてあり、ネットのデータや情報をそのままコピーするな、ということは当然のことで、いまさら文科省が大学に通達を出すのはおかしいのである。

東京大学の生命科学の教科書には自然科学の方法論が列挙してあり、観察対象の明確化、実験観察のデータの重視、追試可能な方法、仮説の検証の必要性などとともに、誤りは正すべきということが書いてある。進化論が検証可能かという点に対しても、検証できない者は科学ではないという意見や検証すべき仮説とそうでないものは区別すべきという意見を併記し、学生に考えてもらおうというスタンスを取っている。問題は中学校と高校で、指導要領の内容にあてはまらないことは本文には書けないというしばりから、枠外にちょこっと書くしか手がない状態である。このような状況では分野横断的な知識や倫理事項は書ききれない。生物の分野でも、今後、認知科学や薬学・医学の知見を採り入れないと、広範な発展分野に参入するのは難しいが、ここは生物、ここは化学、などと言っている場合ではないのである。

他人との接し方や衣食住の作法は家庭でしか学べないとことも多いが、科学研究の作法はやはり研究室が家庭の役割を果たすべきだろう。教員の責任は重い。

2014年9月24日号