連載エッセイVol.91 「かって肌で感じたインタープリター教育」 渡邊 雄一郎

2015-03-09

落ち着いて博士論文をよむために久しぶりに図書室に行った。図書室の匂い――カビ臭かもしれないが――嗅覚はその静寂さとともに研究室に入ったばかりの頃を思い起こさせた。聴覚とも連鎖し、静寂の中に時計の針が進む音が聞こえてきそうだ。実験の合間――待ち時間に図書室にいくと、科学雑誌が待っていた。世界の人は何を考えているのかを知り、自分の研究テーマはごく限定されたものであってもその位置付けを確認した。本棚の向こうでは、普段教室に立って授業をしている教授が研究者の顔に戻り、文献を開いている。その背中をみて、研究者の姿を感じ取った。本棚には何百、何千冊の製本が並んでいる。一冊ごとに何百人もの研究が詰まっている。過去の研究者から見られている感覚、無言の威圧感を受け、自分もその一角に入れてもらいたいと願い、無言の対話を体験した気がする。論文、著書は生きる人であった。

なにげなく10年引用され続けるような論文を目指す、あるいは一年にxx報の論文を書くといった目標を先輩から語っていただけたこと、銀塩写真の暗室作業を教わる中で研究者としてのあるべき姿を学んだことが思い起こされる。一つの論文、一つの写真にこめる思い、苦労を知った。論文を構築する前にどれだけのものを用意するか、一枚の写真を撮る際に何をどれだけどのような順番で並べるかを事前に考えておかないといけない。当たり前となるべきことを実体験させられた。今ではインターネット、デジカメで必要性が激減したこうした営みの中で、気付かぬうちに無言かつ課外の倫理、危機管理、インタープリター教育を受けた気がする。他人をみて我が身をただし、時間は要したが個々にリテラシー、表現技術を学んだ。授業がないから知らなかった、聞いていなかったといえない雰囲気があった。

今の世代の人はこうした体験、考察を充分にしてくれているだろうか。静寂や無の世界と疎遠にしてしまう歩きスマホ、両耳携帯音楽プレイヤーなどで感覚を塞ぎながら時を過ごすのでは、本来感じるべきものに気付かず、同じ物理的時間のなかでも感じ取るものが異なるのではないかと心配になった。

ここで論文を読むための時間を思わぬ思索に耽ってしまったことに気付いた。

2015年2月23日号