連載エッセイVol.112 「遅ればせの水俣訪問」 定松 淳

2016-12-02

科学技術インタープリター養成プログラムで担当している授業で、私は水俣病の歴史を1セメスターのうち6回を使って紹介している。水俣病はさまざまな失敗とそれに抗おうとする人々の歴史であり、日本社会の問題点が凝縮されているからだ。これまで患者さんのお話を聞く機会は何度かあったのだが、先日念願かなって水俣を訪問することができた。

行程をさかのぼると、帰りは敢えて九州新幹線を使わず、水俣から八代まで各駅停車のローカル線を使った。熊本県の南部はリアス式海岸になっており、美しい八代海に面して海と山に挟まれた土地がぽつぽつと続いていく。北から田浦、海浦、佐敷、湯浦、津奈木。これら芦北町や津奈木町も、チッソの放水路変更後に患者が広がった地域である。

水俣はそんな海岸線のなかで少し開けた土地になっている。駅でレンタサイクルを借り、初期に患者が発生した市の南部に向かった。最初の排水路の先は埋め立てられ公園になっている。その先に恋路島があり、当初排水が流れ込んでいた水俣湾がある。水俣湾の南はまた入りくんだ海に山が迫った土地である。月浦、湯堂、袋、茂道(写真)。入江に面した斜面にひしめき合っている人家の間を、アップダウンを繰り返して走った。これらの小さな集落のなかで、患者と名乗るかどうか、また行政や司法から患者と認定されるかどうかでの、分断が引き起こされたわけである。

到着した晩には駅近くのファミリーレストランで食事をした。それは首都圏で私もよく使うチェーンの “水俣店”であった。店内には、家族連れや若いカップル、そしてアルバイトであろう店員さんなど、ごく普通のファミリーレストランの風景があった。当たり前のことであるが、水俣市においても患者・被害者はマイノリティーであり、直接には水俣病とつながっていない多くの日常生活がある。そのことを理解しなくては、初期の、また公害病と認定されてからですらの、水俣病患者に対する地域の風当たりの強さを理解することはできない。

これらの事実は既に書籍で知っていたことばかりである。しかし現場に身を運んだからこそ体感できることがあったと思う。それは言葉にできないほど小さな違いだが、大事な違いではないかと考える。

2016年11月24号