連載エッセイVol.118 「秩序の乱れから考える秩序のあり方」 見上 公一

2017-06-06

新しい環境で生活を始めると、今まで気にしていなかったことが急に気になったり、ほかの人が気付かないことに気付いたりすることがよくある。4月からここで働き始めた私は、今まさにそんな状況にある。

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最近気になったのは歩道を走る自転車の存在だ。ある日、駒場キャンパスの近くを走る山手通りを歩いていたら、私の横を自転車が爽快に駆け抜けていった。危ないと思い、ふと周りを見ると、そこでは縁石の内側に白線が引かれ、頭上の標識で歩行者が通行する側と自転車が通行する側が区別されていた。自転車が通行するはずの部分に特に障害物などはなく、その自転車がなぜ歩行者側にはみ出していたのかと少し不快に感じたのだった。

そして、少しの間を置いて、この「不快さ」が、私に危ないと感じさせたという事実よりも、規則を守らず、そこに存在すべき秩序を乱したという事実に向けられていることに気付く。文化人類学者メアリー・ダグラスがその代表作である『汚穢と禁忌』で論じたように、「穢れ」がその場との関係で生じる相対的な感覚だということを改めて実感したのだった。

では、秩序の乱れによってそこに存在すべき秩序を改めて認識するといったこのような経験は、社会のためにどう活かされるべきだろうか。もちろん、何もしないという選択肢もある。秩序の乱れが放置され、後になって何か事故が起きたならば、私が感じた「不快」がコミュニティの「不安」へと変わり、白線や標識が示唆するそこに存在すべき秩序を取り戻すために更なる術が持ち込まれるだろう。だが、なぜ自転車が歩行者側にはみ出していたのかを理解しようと努力し、新たな秩序のあり方を模索することもできるはずだ。

科学の進展や新しい技術の登場によって、これまで当たり前と思っていた社会の秩序が脅かされることがある。このところ話題となっているゲノム編集技術と生命観の問題は、そのような例の一つと言える。単に秩序が乱れることを嫌うのではなく、かといって秩序の乱れをそのまま放置するのでもなく、私たちの社会に適した新たな秩序のあり方を模索する姿勢の重要性を、これからここで担当する科学技術インタープリター養成プログラムを通じて伝えていきたいと思う。

2017年5月25日号