東京生まれだが父の転勤で三重県の片田舎で小学校の1年生、2年生途中から神戸市に、さらに3年生のときに東京に来て再度転校を経験した。幼い頃であるが同じ日本のなかで小学校での教え方,給食などに違いがあることにショックをうけた。海外でもなく同じ日本国内でどうしてこれだけ違うのか。でも言葉、考え方も違うのが当たり前で、互いに違いを尊重しあえば良いのだと気付いたとき気が楽になった。いま、大学に入って親元を離れる学生も多いが、同じような経験を持つのだろうか。TV、インターネットで情報が飛び交い、移動手段もよくなり日帰りもできる、物流も便利になり、コンビニ、国際的チェーン店で好みのものがいつでもどこでも買える。もしかすると全国各地、世界が画一化された状態が普通と感じてしまっていないか。自分の嗜好がいつでも満たされる感覚の陰で、いま人それぞれの個性の存在を忘れてはいないか。グローバル化の流れとは何か。確かに経済や流通の上では大きく変わったのであろうが,我々の意識はどのように変革したのか。お互いの違いを理解しあえるようになっているのか。知識などが多様化し、さまざまなステークホルダーの見方の相互理解が重要となっている時代である。相手も同じような考え方を持っていると思い込む所がないだろうか。国際的交流や科学コミュニケーションを行う場合に、お互い多様な視点や考え方を尊重し、同じ舞台の上で議論をすること、経験することはこれから重要になっていくと感じる。
推薦入学、留学生など多様な学生を受け入れる仕組みが様々に行われ、キャンパスにも多様性が豊かになってきた。学生として多様な人材を確保することが議論されるが、教員の方は従来の枠で入学した学生と長年関わってきたこともあり,なかなかに柔軟な変化対応は難しい。どの学生でも出席したい授業を受講できると良いのだが,類似の内容であっても、言葉の問題や制度上できないところがある。コミュニケーションを行う授業では、学年、経験や国,言語の違いを多様性として活かした形で実践することは可能にならないだろうか。何を学び,互いに何が得られるのかに答えられれば、多様な主張、言語、能力、学年の違いは乗り越えられないか。お互いのさまざまな文化背景、経験,学術的財産を理解し,われわれが多様な人材に発信ができる場をキャンパス内に広めたいものである。
2018年2月22日号