連載エッセイVol.129 「科学技術インタプリターとしての書評」 佐倉 統

2018-05-02

今年(2018年)の3月まで、『朝日新聞』の書評委員を4年務めた。とても楽しい仕事だった。

ぼくが書評のおもしろさに開眼したのは、大学院時代に読んだ、進化遺伝学者リチャード・ルウォンティンの書評がきっかけだ。1976年に出版されたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を取り上げて、『ネイチャー』で激しく批判したのである。タイトルは”Caricature of Darwinism”。ある理論でなんでも説明できてしまうように展開するのは、その理論のパロディなのだ、まちがった解釈なのだ、という主旨である。

それまで、そこそこ誉めてチャンチャン、みたいな毒にも薬にもならない書評しか知らなかったぼくは、書評ってこんなに批判的で厳しくて、でも生産的でありうるんだということに改めて目を開かされた。

ルウォンティンのこの書評をひとつの皮切りとして、いわゆる「社会生物学論争」が始まった。ドーキンスは、人間を含めて動物の社会的行動を適応論の枠組みで説明しようという社会生物学(行動生態学)の華々しい旗手だったから、いつも批判の矢面に立たされたが、彼も黙ってはいなかった。ドーキンスによるルウォンティン批判も、なかなか厳しい書評がたとえば『ニューサイエンティスト』などに載っている。

このように、良い書評は学問のダイナミズムを伝えてくれる。単行書には、著者の世界観や価値観が原著論文よりはるかに明確に打出されている(だから単行書は共著が原著論文より少ない)。それを対象にする書評も、書き手の考えかたや、ときには人となりが、論文よりも強く前面に出てくることになる。

科学技術インタープリターの一環として、書評の役割やあり方なども、検討してもいいのかもしれない。

2018年4月23日号