「日本語の功罪」 深津 晋

非日常的、つまりほとんど生活では使われず、かつ画数の多い漢字の専門用語というやつは厄介である(逆に言えば、カタカナを除けば、ひらがな表記の専門用語はほぼ皆無ということでもある)。これらが初学者・入門者を遠ざけている事実を否定できないからだ。

物理では「摂動」という用語が頻繁に現れる。実際、力学や量子力学の計算で耳目に触れることが多い。「微小な変化とか揺れ・ぶれ」を意味するが、日常生活とは隔たりがある。

摂動の「摂」は、摂政や摂理の「摂」と同じだが、これは略字体でもともともは耳が3つもあった。「摂」で13 画、「攝」で21 画である。書くのにかかる時間に反比例して理解が遠のく気がするのは、錯覚ではなかろう。対応する英語は perturbation。これなら日常的に使う言葉にもよく似ているので感覚的に「雰囲気」がつかめそうだし、「来るものを拒む」「上から目線」の学術用語っぽくもない。

もうひとつの例は「自己無撞着」。自分の守備範囲では矛盾がない、首尾一貫している、という意味で使われる。だったらそういえばいいじゃん、といつもながらに思うのだ。「撞着」は、現代社会ではほぼ死語である。で、これに対応する英語は self-consistent。こっちの方が直線的でよほど単純・明解である。解釈・議論の余地を残さず潔さを感じる。

最後の例は、「関数 f(x) をこれこれの基底を用いて“展開”する」。「展開する」のココロを有り体に言えば、「手元にあって使えるものがこれぐらいしかないので、とりあえず掛け算と足し算をつかって f(x) を真似てみせる」に過ぎない。このように表現するだけで「展開」のもつどこか権威主義的で他者をよせつけない威圧感、これを目にする初学者・入門者が感じるかもしれない無用の斥力、孤立感・疎外感などが防げそうな気がするのだ。

翻ってたったひとつのフレーズに一連の思考・作業の過程を集約することは、情報提供・コンテンツ開発サイドの自己満足的な「美学」に過ぎないとも思う。使うと便利ではあってもユーザへの「価値観の押しつけ」になっていたら問題だ。まして当事者が「ああ、自分はなんてスマートなんだ、カッコいい」とでも思っているならかなりヤバい(( self-consistent ならぬ self-confident を通り越して overconfident でさえある))。

まずは、こうしたことばの「心理障壁」を取り除くことが、嫌われがちな物理の市民権獲得、理科離れの解消につながってくれないか、と閉店間際の今になってつくづく思ふのである。