話題の映画《イミテーション・ゲーム》を見た。コンピュータの基礎になる計算理論を発展させ、計算機を作成したイギリスの数学者、アラン・テューリングの劇的な生涯を描いた名作だ。未見の方は、是非。
80年ほど前にテューリングが蒔いた種は大きく育ち、今や人工知能は人間の能力を凌駕しそうなところまでに成長した。何も指示していないのにネコの姿を認識できるようになったり、クイズ番組で優勝したり、チェスや将棋でチャンピオンを破ったり、人と機械の間の壁は次々と突破されている。人工知能といえばホラ吹きの代名詞みたいに思われていたが、ビッグデータ解析と深層学習という二枚看板を伴う今回の波は、さすがに今までとはちょっと違うような雰囲気が濃厚に漂っている。2045年には人工知能が人間の知性を凌駕する技術的特異点(シンギュラリティ)を迎えるという人もいるぐらいだ。
ブラックホールの理論などで画期的な業績をあげた「車椅子の天才」スティーヴン・ホーキング博士は、完全な人工知能は人類を破滅させるかもしれないと発言をして話題を呼んだ。彼の不安は、的中するのだろうか?
2045年かどうかはさておき、いずれ人工知能が人間の能力を上回る日が来るのはたしかだろう。しかし、それが直ちに人類の破滅につながるとも思えない。人間の多くはペットのように可愛がられるかもしれないし、その時点でも残るであろう機械の苦手な分野を引き続き人間が担当することもありそうだ。
大事なことは、今から来るべき日々について、あれこれ考えておくことだろう。自動車が発明されて人より早く動けるようになったことや、飛行機で空が飛べるようになったことと、人工知能が人間より頭が良くなることとは、何が同じで何が違うのか? あるいは、家畜動物と人間はどのような関係を築いてきたのか?
そもそも、機械や人工物について、人間はどのような関係をもってきたのか?
科学と社会と文化と人間とが、どのような関係を綾なしてきたのか、これからしていくのか。科学コミュニケーションにとっても、真価の問われるシミュレーション作業になるだろう。
2015年4月23日号