本プログラムの運営委員である、藤垣 裕子 先生の寄稿文を掲載します。『教養学部報』622号の転載となります(2020年11月4日)。
新型コロナウィルス感染症が提起する「科学技術と社会」の課題
新型コロナウィルス感染症への対応をめぐって、科学技術と社会の接点で「不確実事象の扱い方」「リスク・コミュニケーションのありかた」「科学的助言のありかた」が課題となっている。これらは、科学技術社会論の課題そのものである。四月から東大出版会よりシリーズ『科学技術社会論の挑戦』三巻本を上梓した責任編集者として、シリーズ本の内容をベースにこれら三つの課題について考えてみたい。
新型コロナウィルスに関する科学的知見はまだ不完全であり、世界中の研究者たちが時々刻々と知見を更新しつつある「作動中の科学」のなかにある。Covid-19のメカニズム、治療法、効果のある対策のありかた、経済活動との共存、どれもまだ知見の収集が続いている段階であり、各国とも手探りの状態が続いている。日本でも四月には「アビガンが効く」と言われたが、血液凝固を止める薬を併用しないとアビガンを投与しない群よりも死亡率が高いことが後に明らかになった。また八月には大阪知事と大阪市長が「うがい薬が効く」と発表し、うがい薬の買い占め行動が発生し、公表の是非が問われた。研究成果が時々刻々と更新されている段階では、情報公開にも政策決定にも注意が求められる。
メカニズムや治療法や予防法に関する知見については、査読前の論文を公開して共有することも提案され、オープンアクセスのみならずオープンサイエンスの必要性も指摘されている。専門誌共同体の査読システムによる科学的知見蓄積のありかたに対する最先端の課題が提起されているわけである。それと同時に、査読前公表やオープンサイエンスは「作動中の科学はいつでも書き換えられること」を前提にする必要があり、公衆との間の科学コミュニケーションを難しくする。
不確実性が含まれる場合のリスク・コミュニケーションないしクライシス・コミュニケーションはどうあるべきか。情報を受け取る側にも冷静さが求められる。この問いは、実は東日本大震災のときも提起された問いである。日本学術会議や各種学会は当時、「専門家として統一見解を出すように」という声明を出した。しかし本来は、時々刻々と状況が変化する原子力発電所事故の安全性に関する事実を一カ所に集め、Organizedな知識(統一見解でなくてもきちんと幅を示し、安全側にのみ偏っているのではない知識)を発信する必要があった。このような情報発信をめぐる問題は、科学者の責任に関して新たな課題を提示する。心配させないようにただ一つに定まる情報を出し、行動指針となる一つの統一見解を出すのが科学者の責任なのだろうか。それとも幅のある助言をして、あとは市民に選択してもらうのが責任だろうか。
この問いは、不確実事象の科学コミュニケーションおよび科学教育のありかたとつながってくる。科学者が「幅のある助言をして、あとは市民に選択してもらう」文化を育てるためには、まずメディアがリスク情報についてYESかNOか、あるいは白か黒かという回答を迫る傾向を修正しないとならない。行政およびメディアがいままで一つの行動指針をめざすことにあまりにこだわり、「市民が自分で考え行動する文化」の進展を拒んできた傾向がある。また、科学教育が「理科の問題の答えはただひとつに定まる」という教育をしてきたことも問題だろう。もちろん一つに定まるものもあるが、なかには科学者にもまだ答えが出せず不確実性がある状況で社会の意思決定が必要な課題もある。イギリスのある理科の教科書では、「科学者の答えがひとつに定まらない問題もあること」「科学者の間で意見が異なることもあること」「科学者が正しいとする答えも探求がすすめばいずれ書き換えられる可能性もあること」を教え、そのうえで市民が自ら考える素養を教えている。それは「市民が自分で考え行動する文化」を醸成するために大事な素養となる。
さらに科学的助言のありかたにも検討が必要となろう。科学的助言では、専門家が複数の選択肢のメリットおよびデメリットを示したうえで、政治が意思決定してその決定の責任を負うというのがあるべき姿である。しかし、四月には医学的見地からの助言を担うはずの人々が個人の行動や生活スタイル、企業活動の自粛要請までに関与し、ひとびとの行動変容という社会の意思決定にまで直接関与する傾向があった。このことをどう評価すべきだろうか。
原発事故のときは、人々が自らの行動を決める(自主避難する、避難勧告に従う、など)ための根拠となる情報を隠蔽することなく幅広く発信することが大事であったのに対し、今回のコロナ禍では、人々に行動制限をかける(中国からの入国制限、欧州からの帰国制限、外出制限、人との接触を八割削る制限)ための科学的根拠が求められいる。つまり、前者(A)は「自由な行動選択のための情報」であり、後者(B)は「行動制限のための情報」なのである。Aにおいては、情報発信の中立性、独立性を担保できる機関が必要であり、利益誘導にまどわされることなく偏りのない意見分布を示すための学者集団が必要となり、たとえば日本学術会議は強みをもつ。しかしBにおいては、あまり強みを持たない。なぜなら、学術会議は人々に行動制限をかける主体ではなく、人々に行動制限をかけるのは、なんらかの組織の長、自治体、国であるからである。たとえば大学の学長は、入試や授業を対面でやることの禁止、キャンパスへの入構禁止といった「行動制限」の主体たりえるが、学術会議はそのような主体たりえない。今回の専門家会議の「踏み越え」は、行動制限のための情報を出した専門家会議が、行動制限をかける主体と同様にふるまってしまったことによっている。
最後に、今夏にオンラインで開催された国際科学技術社会論会議でのパネリストの言葉を引いておこう。「Covid-19はただの病気ではない。生態学的な危機、経済学的な危機、人種差別、フォービア(嫌悪)と組み合わさっている。そして、資本のグローバリズム、組織構成、産業としての農業に対して課題を提起している。」
(広域システム科学/情報・図形)