【追悼文】「科学コミュニケーター 松井孝典先生」 廣野喜幸

2023-04-13

どの組織も立ち上げ時はあれこれいざこざが生じがちである。科学技術インタープリター養成プログラムも例外ではなかった。混沌の時代である設立時(2005年度)に、松井先生はプログラムの初代代表に就任し、力強くプログラムを牽引してくださった。


 1980年代は総合科学雑誌ブームの時代だった。『科学』(1931年創刊、岩波書店)や『科学朝日』(1941-2000年、朝日新聞社、後に『サイアス』に改称)・『自然』(1946-1984年、中央公論社)といった老舗陣が奮闘する中、1971年にScientific American誌の日本版である『サイエンス』(日本経済新聞、後に『日経サイエンス』に改称)が創刊されたあと、『ニュートン』(1980年創刊、ニュートンプレス社)、『ポピュラーサイエンス』(1981ー1984年、Popular Science誌の日本版、ダイヤモンド社――同誌は、イブニング・スター社から1947ー1960年代、トランスワールドジャパン社から2000ー2006年まで刊行されている)、『ウータン』(1982-1997年、学研)、『オムニ』(1982―1989年、Omni誌の日本版、旺文社)、『クォーク』(1982―1989年、講談社)と、新雑誌が相次いで刊行されたのである。自然科学を専攻する貧乏大学院生には、買いそろえるのが難儀だったおぼえがある。

 指導教官であった竹内均先生(1920-2004)と、1888年以来の歴史を誇る著名な『ナショナル・ジオグラフィック』誌のような、しかし、それを越える雑誌をつくりたいねと語り合って、『ニュートン』の発刊に尽力したのが、松井先生であった。多くの新興科学誌が消え去った中、1980年代の科学雑誌新刊ラッシュの先陣を切った『ニュートン』は、今でも刊行が続き、存在感を示している。もとより、同誌の成功は多くの方々の努力に負っているのだが、その重要な一因として、初代編集長だった竹内先生と、その右腕として活躍なさった松井先生の見通しのよさをあげることができるように思う。たとえば、”多くの科学雑誌は企業の広告収入をあてにしているが、それだと長続きするとは思えなかったので、広告は一切なしで刊行を続けられる方策をあれこれ工夫した”とか、”一般の方々に科学を伝えるにあたっては、ビジュアルのよさが重要になってくるが、『ナショナル・ジオグラフィック』のように質の高い写真をふんだんに使うことはできないので、イラストを充実させていこうと考えた”とか、そのために”科学イラストレーターの育成が重要だと認識した”といった話を、食事をともにしながら、いろいろ伺ったものである。

 松井先生のお名前を初めて知ったのは、私が院生になったばかりの1983年に、『パノラマ太陽系ーーボイジャーは宇宙に何を見たか』(講談社ブルーバックス、1981年)に興味をひかれ、買い求めたときであった。進化生態学徒であった私は、生物進化の舞台である地球の進化についても基本的な素養を身につけておいた方がいいだろうと考え、紐解いたのである。今でこそ、地球の進化と生命の進化の関係は、丸山茂徳・磯崎行雄『生命と地球の歴史』 (岩波新書、1998年)や川上紳一『生命と地球の共進化』(NHKブックス、2000年)によって、良質な情報がまとまった形で簡便に入手できるようになっているが、当時は別々の情報源から得た知識を自分でまとめなおさなければならない状況にあった。

 『パノラマ太陽系』は、先生の最初の啓蒙書だったはずである。プログラムの仕事でご一緒している時点ですでに30冊は越える著書をものされていた。生涯では、40冊を越える書籍を世に問われた。私も歳とともに忙しさも増し、松井先生のあまたある著作をことごとく読破する余力などなくなっていたけれども、『地球・46億年の孤独――ガイア仮説を超えて』(徳間書店、1989年)や『地球大異変――恐竜絶滅のメッセージ』(ワック、1997年)など、何冊か、冴え渡る松井節を味わい続けた。遅筆の私は、あやかりたいと、あるときに執筆のコツ、極意、留意点を伺ったことがある。「教えられない。別に意地悪で教えないわけでもなければ、秘密にしておきたいわけでもない。最初に本を書いたときから、なぜかすらすら書けてしまうんだ。苦労してノウハウを身につけたわけではないから、教えたくても、教えられない。」というのが、お答えであった。うらやましいかぎりだ。先生は天性の文才をお持ちだったのだろう。

 松井節は歳を経るほどに、通常の自然科学者の枠を越えていったように思える。宇宙科学や惑星科学についてわかりやすく解き明かすに留まらず、そうした学問が明らかにした事実の文明論的意味・意義を高らかに語り、警告を発するようになったのである。傾聴に値する興味深い洞察が繰り広げられているのだが、四角四面な自然科学者からすると、自然科学が保証できる確実性をはみ出した越権行為に映ったかもしれない。


 1946年生まれの先生は、30歳のときに東京大学理学部で理学博士号(Matsui 1984)を取得された後、32歳で同学部に助手として就職された(私が大学に入学した年である)。そして、地球に海が誕生し、「水惑星」となった機序を明らかにする論文を1986年に『ネイチャー』誌に発表された(Matsui and Abe 1986)。私は博士課程に在籍しており、その業績は国際的なレベルのものなのだろうなと推測していた。にもかかわらず、先生が助教授に昇進されたのは、46歳のときであった。教授になったのは、新領域創成研究科に異動された53歳のときである。業績の劣る筆者ですら、39歳で助教授、53歳で教授になっていることと比較すると、業績に比して昇進は遅かったと言わざると得ないーー最期には千葉工業大学の学長という要職に就き、現役のまま、生涯を終えられたけれども。「セーガンと同じだよ」と先生はおっしゃった。

 セーガン(Carl Edward Sagan 1934ー1996年)は、松井先生より一回りほど年長の同分野の研究者であった。シカゴ大学の学部生時代、インディアナ大学のマラー(Hermann Joseph Muller 1890―1967年)――ショウジョウバエを対象にした遺伝学でノーベル生理学・医学賞を1946年に受賞していた――のもとで、自主的に実験を手伝っていたことからもうかがえるように、もともと生物にも興味をもっていたセーガンは、今日言うところのアストロバイオロジー(宇宙生物学)の先駆者となった。松井先生もセーガンから一足遅れで、アストロバイオロジーを推進なさっていた印象がある――ちなみに、私も日本宇宙生物科学会の設立時にメンバーとして名を連ねたことがある(とうの昔に退会してしまったが)。「同じだよ」の意味は、同じ宇宙科学を専攻していること、いまだ輪郭も定まらないアストロバイオロジーなる領域に身を投じた進取の気性を共有していること以上の含意があった。

 生命現象を司るのは化学過程である。それゆえ、地球外生命を研究するためには、化学的探求が有用になる。地質学的・天体物理学的アプローチがさかんであった惑星研究に、化学的アプローチの新風を吹き込んだのが、セーガンであった。たとえば、土星の衛星タイタンには、赤味を帯びた靄が観察される。セーガン研究室は、こうした大気の化学反応に取り組み、赤色をした複雑な有機分子の存在を予見した(Khare and Sagan 1976)。他にも、金星はその大気の温室効果によって、高温高圧状態になっていること(Sagan 1960)や、火星が季節変化で暗く見えるのは、従来考えられていたような植生の変化ではなく、砂塵のためであること(1969年)等々の知見をもたらした。さらに、地球以外の天体で人間が暮らすにはどうすればよいかを考えるテラフォーミング理論(Sagan 1961)や、核爆発によって地球の温度が低下するとしたTTAPS理論、別名「核の冬」理論(1983年)なども展開した。宇宙探査計画にも積極的に関与している。タイタンにおける赤色有機分子は、こうした宇宙探査によって実証されるに至った。セーガンの学問上の業績については、松井先生の弟子筋(にあたるはず)の関谷康人先生(東京工業大学教授)による「カール・セーガンの黄金(こがね)の釘」(https://www.mitsubishielectric.co.jp/me/dspace/astrobiology/15.html)などをご参照いただけると幸いである。

 上記の業績は、セーガンがすぐれた科学者であることを証しているように思われる。にもかかわらず、ハーヴァード大学の准教授だったセーガンは、終身在職権(テニュア)を同大学から拒絶されたそうだし、全米科学アカデミーは1984年と1992年の2回、セーガンの会員入りを却下した。特に1992年は業績もさらに増え、最終候補にまで選出されていたので、異例の出来事として話題になった。その代わりに(?)、1994年、米国科学アカデミーは、科学を通じて公共の福祉に多大な貢献をした人物を顕彰する公共福祉メダル(Public Welfare Medal)を授与した。1996年にセーガンは逝去し、ついに会員にならずじまいに終わった。アカデミアの権威筋は、セーガンの優秀さは科学的探求にあるのではなく、啓蒙活動にあると認定しつづけたのである。セーガンの名声は、科学上の業績よりも、『コスモス』(1980年)に結びつけられていたからだ。

 『コスモス』とは、アメリカの公共放送であるKCET(カリフォルニア教育テレビ)、イギリスの放送協会BBC、西ドイツのポリテール・インターナショナル、日本の朝日放送によって製作・放映された、13回にわたるTVの連続ドキュメンタリー・シリーズであり、また、同時に刊行されたセーガンの著作でもある。それは、太陽系の話からはじまり、太陽系外の宇宙の現状や成り立ち、生命の歴史、知性の歴史、地球外生命や知性体の可能性が壮大な映像とともに、セーガンによって平易に語られ、核戦争に対する警告で締めくくられる構成となっており、大きな評判を呼んだ。放送は1981年にエミー賞5部門の候補になり、3部門(informational programming, astronomical artistに対するcreative technical crafts, magicam crewに対するcreative technical crafts)で受賞し、ピーボディー賞も得て、書籍はヒューゴー賞のノンフィクション部門賞を受け、邦訳は116万部を突破するといった具合に、『コスモス』は大きな成功をおさめた。これによって天文学者になることを志した者も多かったという。これ以降、セーガンはマスコミの寵児となった。ある意味、成功しすぎたと言えるだろう。

 ”マスコミに出ている時間と精力を研究に振り向ければ、もっとよい研究ができるはずだ。マスコミに頻出する科学者は、よい研究をできているはずがない。マスコミへの登場頻度と研究者としての優秀さは反比例する。” 自然科学者としてはいささかお粗末なこうしたロジックもどきによって、マスコミに頻出する科学者に対する業績評価が科学者共同体内において低下することを、「カール・セーガン効果」と1997年に名づけたのは、テレビの司会で名の知られたハーツ(James Leroy Hartz 1940―2022)と宇宙飛行士・天体物理学者で、NASAでも活躍したチャペル(Charles Richard Chappell 1943年生)であった(Harz and Chappell 1997, p.55)。セーガンが全米科学アカデミーの会員に選ばれなかったのは、少なくともその一部は、まさに「セーガン効果」のためだと推測される。”あいつは真の科学者ではなく、科学啓蒙家にすぎない”ーーセーガン効果を支えるこの物言いの裏には、自分の方がマスコミに注目されるに相応しい研究成果をあげているはずだという自負と嫉妬、やっかみの類いがあるのだろう。おそらく、松井先生もセーガン効果の憂き目に多々あっていたのではないだろうか。


 2006年ももう終わりにさしかかった12月26日(火)、松井先生から関係者に突如メールが送られてきた。「皆様へ 一身上の都合で、本年末をもって、科学インタープリター養成プログラムの代表を辞退させていただきたく、皆様にご連絡します。……急なことで申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」代表は雑事も多い。2~3年で交代するのも、宜なるかなとはじめは思ったのだが、よくきくと、代表を辞めるだけではなく、プログラム自体から手を引くという。上記のごとく、松井先生は、からだをはって科学コミュニケーターを続けてこられたーー現在では、セーガンや松井先生や他の方々に尽力によって、宇宙科学の分野では、セーガン効果はほぼ払拭されているという(Entradas and Bauer 2018, Joubert 2019)。今、松井先生に抜けられるのは、戦力の大幅ダウンである。さて、困った。12月28日(木)に長時間に及ぶ電話を差し上げ、引き続き関与してくださるようにこいねがったが、ついに翻意を得ることはかなわなかった。プログラムの一員としては困ったけれども、個人としては、身の処し方を教わった心持ちがした。人は、そのときやるべきことをきちんとやり遂げるべきなのだ。科学インタープリター養成プログラムは、松井先生にとって、やるべきことではなくなっていたのだろう。

 科学技術インタープリター養成プログラムを軌道にのせるにあたって、松井先生のスケールの大きな構想力、そして、科学コミュニケーションにおいてさまざまな工夫を試行錯誤された経験の積み重ねが、大きな役割を果たしていたことにあらためて気づかされる。辞意を表されたあとでも、プログラムの今後について最後まで力を尽くしていただいた。次は、2006年度末の会議に向けて先生が発したメッセージである。「今後の方針について本音で徹底的に議論をしたほうがいいと思います。先日の発表会でもあれだけのことを各階層の人からいわれたのですから、遠慮をしていたりして適当に済ませるようなら、このプログラムの未来は本当に無いと思います。20日の午前に私も都合がつけられるようなら、最後のご奉公で出席したいと思っています。」(2007年2月14日付けメール)

 松井先生の構想を実現すべく、私たち准教授クラスが走り回った日々、帰らざる日々が懐かしく思い出される。たった2年にすぎなかったが、私にとって、あの日々は濃密な時間として印象に残っている。その後の科学インタープリター養成プログラムを、松井先生はどのように思っておられたのだろうか。先生のご冥福をお祈りする。


                                           廣野 喜幸


【文献】

Entradas, Marta and Martin W. Bauer (2018) Bustling public communication by astronomers around the world driven by personal and contextual factors. Nature Astronomy, 3:183–187.

Harz and Chappell (1997) Worlds Apart: How the Distance Between Science and Journalism Threatens America, First Amendment Center.

Joubert, Marina (2019) Beyond the Sagan effect, Nature Astronomy, 3(2):131-132.

Khare, B.N. and Carl Sagan (1976) Red Clouds in Reducing Atmospheres, Icarus, 20:311-321.

Matsui, Takafumi(1976)Numerical simulation of planetary accretion process : planetesimals to plane. Doctoral Dissertation to the University of Tokyo.

Matsui, Takafumi and Yutaka Abe(1986)Impact-induced atmospheres and oceans on Earth and Venus, Nature, 322: 526-528.

Sagan, Carl (1960) The Surface Temperature of Venus. Astronomical Journal, 65:352-353.

———- (1961) The Planet Venus. Science, 133 (3456):849-858.

———- (1980) Cosmos, Radom House. セーガン、カール(1980)『COSMOS』木村繁訳、朝日新聞出版=(1984)『コスモス』木村繁訳、朝日文庫=(2013)『COSMOS(上・下)』木村繁訳、朝日新聞出版。

———- and James B. Pollack (1969) Windblown Dust on Mars, Nature, 223:791-794.

Turco, Richard P., Owen Brian Toon, Thomas P. Ackerman, James B. Pollack and Carl Sagan (1983) Nuclear Winter: Global Consequences of Multiple Nuclear Explosions, Science, 222:1283-1293.